ヨハネによる福音書 20章1~18節 「振り向くと復活の主イエスが」
「物語」について、時系列に自然に流れ理路整然としているとか矛盾がないとかを前提にすると、ヨハネによる福音書は、かなり規格外になります。通して読むと理性的な人は矛盾を感じて頭がクラクラしたり落ち着かない気持ちになるかもしれません。ヨハネ福音書は、ルカ福音書の次のような問題意識には無頓着だからです。ルカによる福音書の冒頭は以下のようにあります。「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」(ルカ1:1-4)。
今日の聖書での中心的なテーマは、マグダラのマリアの復活の主イエスとの出会いにあります。この物語で、「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」と声をかけられた時、マリアはそれがイエスだと分かりません。普通に読めばおかしいです。ずっと一緒にいた人の姿や声から本人であるからです。しかし、復活の主イエスが分かること、すなわち「わたしは主を見ました」と他者に告白できるようになるためには、まず復活者である主イエスからの呼びかけから始まるのだとヨハネによる福音書は言いたいのです。
ヨハネ福音書10章の羊飼いと羊の話の中で「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(16節)とあります。3節に「羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」とあるように、です。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(11節)が出来事として起こったのが十字架刑なのです。そして、「マリア」と名前を呼ぶのは死んだ方ではなく復活された方であり、それゆえそこにはまことの力が働いているのです。
12章24節の「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」も同様に、主イエスの死の意味を示唆しています。十字架刑による死からいのちへの道筋が備えられている確かな約束があるのです。ここに希望をつないで、今ある生を喜びの内に受け入れることができるのです。ここに悲しみから自由にされていく真理が与えられているのです。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(8:32)とあるように、です。
復活とは本当のところ何なのか、という大きすぎるテーマを一気に述べることは難しいです。少なくとも、今日のテキストから示されているのは、復活の主イエスから名前を呼ばれていること。ここから認識される方こそが、唯一のキリストなのだということです。このマグダラのマリアが誰であり、どのような人であったのかについては教会の解釈の歴史の中で肥大化されており諸説ありますが、4福音書から読み取れる限りで確からしいこととは、ガリラヤでの活動初期から主イエスと行動を共にしていた人であることくらいです。初期の活動から十字架に至る途上における主イエスの振る舞いと言葉の、身近な目撃者として共に歩んできたことです。いのちの根源を尊重し抑圧に抵抗するなどの主イエスの闘いの同伴者であったのです。
復活とは、主イエスの歩みが十字架刑による死によって終焉を迎えたことを悲しみ泣くことに留まるのではない、ということです。その死の事実を展開点として、マリアは、「マリア」との呼びかけによって振り向き、「ラボニ」=「先生」として生前の主イエスのあり方を再確認することができたのです。ここでの「振り向いて」とは、ただ単に所作だけのことではありません。生前の主イエス総体を振り返る、さらにはかつての出会いを思い起こし、今のこととして新しい生き方の可能性が広がりゆくことの承認であったのではないでしょうか。復活の主イエスの呼びかけに応える、このマグダラのマリアの「振り向いて」という姿勢は、新しく生きることへの促しに対する信仰告白であったとさえ思えてきます。
この「振り向いて」という姿勢は、マグダラのマリアだけに閉じられているのではありません。ヨハネによる福音書を通して語られる復活日のメッセージに与る、すべての人に関わる出来事です。今日は、主イエス・キリストの復活を記念し、祝う日です。今一度、わたしたち一人ひとりが、自分の名を復活の主イエスが呼びかけてくださっていることを信じ、確認したいと願っています。振り返ればそこに復活の主イエスが、あなたがたのところに実在していることに気付かされるはずですから。
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