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2020年4月

2020年4月19日 (日)

ヨハネによる福音書 15章1~5節 「まことのぶどうの木」

 主イエス・キリストは、「わたしはまことのぶどうの木」と語りかけています。この言葉をどのように受け止めるかが今日のテーマとなります。
 「わたしはまことのぶどうの木」である主イエスにつながっていることをわたしたちは知らされています。主イエスが自らを「ぶどうの木」であると表明し、それこそが「まことの」と呼ばれること。わたしたちが主イエスという「まことのぶどうの木」につながる枝であるということは、いのちを枝という関係全体に行き渡らせ、育み支えている事実の関係に置かれているのだということです。主イエスなしに、わたしたちのいのちはあり得ないのだというのです。これはただ単に「わたし」という個人が主イエスを信じることでつながっている、ということではありません。「わたしたち」というつながりにおいてなのです。いのちの関係性を支え育む全責任を「まことのぶどうの木」である主イエス自らが負ってくださるのだという宣言でもあるのです。
 わたしたちは教会という信仰共同体としての「わたしたち」でありますが、それだけではなくて様々な場に応じての「わたしたち」でもあります。人は一人では生きられないと言われています。ですから、「わたし」は、いくつもの「わたしたち」の中の一人です。しかし、「孤独」が様々な仕方で襲いかかり、自分は誰からも相手にされず、したがって自分からも誰かに働きかけることへの気力を失うこともあるでしょう。あるいは人間であるということそれ自体からやってくる、自分とは何かという問いの前で立ち尽くさなくてはならない課題における場合もあるかもしれません。最近は特に、SNSなどの発達によって人と人とがつながっているという錯覚の装置のゆえに、「孤独」の闇は一層深まってきていると思われます。
 主イエスは「まことのぶどうの木」である事実に今一度立ち返ろうではありませんか。 主イエスは「まことのぶどうの木」です。ここからのいのちに与る枝がわたしたちの今という現実なのです。この現実のただ中に復活のキリストの聖霊が働き、支え導いてくださっている恵みを感謝すればいいのです。
 けれどもより深刻なことに、ただ孤独を感じるということを超えて、暴力的な仕方で疎外する言説や行動によっていのちの危険にさらされる場合もあるのではないでしょうか。見方を変えれば、「わたしたち」は常に「誰か」を排除する可能性の中にある、ということです。様々なマイノリティーに対するヘイトスピーチ、あるいは自己責任バッシングなどに明らかなように。
 ここでもう一度聖書に戻り、確認しておきたいことがあります。閉じられた教会理解に陥るべきではないということです。ヨハネ福音書を読むときの注意点の一つです。この福音書の書かれた背景には、会堂から追い出されるモチーフがあります(9:22、12:42、16:2など)。これはユダヤ教からキリストを信じる者が排除された事実の反映です。ですから、ヨハネによる福音書は、この事実を踏まえた上で「この世」に対して自分たちを、乱暴な言い方をすれば「聖別」し、自らの正当性に居直ろうとする癖があるのです(この点を踏まえながらも「この世」に対する「伝道」の意思を捨ててはいないとする学者の説も重要ですが……)。
 田川建三が翻訳したヨハネによる福音書の註に以下のようにあります。【この譬えの焦点は「枝」つまり信者が「実を結ぶ」かどうかにある。いや、実を結ばない信者は切って捨てられるよ、と脅す点にある。いや、実を結ぶ前から、「イエスの中に留まらない信者」つまり正統主義のドグマを信奉しない信者は、切って捨てられる、という点にある。】。これは16節の「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」との言葉からも納得がいきます。さらに、有名な3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この言葉も18節では「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」と展開されていくからです。
 しかし、このような傾向があったとしても、それでもなお、主イエスが「まことのぶどうの木」である事実は退けることができない、と思います。この16節を教会の内と外を隔てるための言葉として読むのではなくて、15節後半の「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」から読み返していくならば、「枝のように外に投げ捨てられて枯れる」のは、単純に教会の外側に限定すべきではありません。9節から展開される愛のテーマにおける12節の「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」という主イエスの目指した世界観を疎外するあり方や勢力に対して向けられるべきではないでしょうか。17節の「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」との命令に背く事態全般に対して「投げ捨てられて枯れる」という言葉は向けられているのです。すなわち、広義の「人道に対する罪」とも言える現実に対して、「愛」を根拠に立ち尽くす信仰。これが、主イエスの語る「わたしはまことのぶどうの木」の現実を指し示しているのです。
 さらに「わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」とあるように、神によって確実に遂行されるのだとの確信が、ここにはあるのです。ですから、わたしたちが神に成り替わるようにして排除の主体になってはいけないのです。人間の限界をわきまえなくてはなりません。あくまで裁きは神の御手にあることへの信頼が大切なのです。人が裁く主体になってはならないのです(「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」(12:47)。
 今日のテキストで最も重要なのは、生前の主イエス、十字架の主イエス、復活の主イエスの目指した、いのちのつながりの復権にあります。閉ざされた共同体内倫理ではなくて、広がりゆく「愛」によるつながりの創造的倫理とも言うべき事態への促しと招き。それが、「わたしはまことのぶどうの木」の譬えによって語られているのです。

2020年4月12日 (日)

ヨハネによる福音書 20章1~18節 「振り向くと復活の主イエスが」

 「物語」について、時系列に自然に流れ理路整然としているとか矛盾がないとかを前提にすると、ヨハネによる福音書は、かなり規格外になります。通して読むと理性的な人は矛盾を感じて頭がクラクラしたり落ち着かない気持ちになるかもしれません。ヨハネ福音書は、ルカ福音書の次のような問題意識には無頓着だからです。ルカによる福音書の冒頭は以下のようにあります。「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」(ルカ1:1-4)。
 今日の聖書での中心的なテーマは、マグダラのマリアの復活の主イエスとの出会いにあります。この物語で、「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」と声をかけられた時、マリアはそれがイエスだと分かりません。普通に読めばおかしいです。ずっと一緒にいた人の姿や声から本人であるからです。しかし、復活の主イエスが分かること、すなわち「わたしは主を見ました」と他者に告白できるようになるためには、まず復活者である主イエスからの呼びかけから始まるのだとヨハネによる福音書は言いたいのです。
 ヨハネ福音書10章の羊飼いと羊の話の中で「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(16節)とあります。3節に「羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」とあるように、です。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(11節)が出来事として起こったのが十字架刑なのです。そして、「マリア」と名前を呼ぶのは死んだ方ではなく復活された方であり、それゆえそこにはまことの力が働いているのです。
 12章24節の「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」も同様に、主イエスの死の意味を示唆しています。十字架刑による死からいのちへの道筋が備えられている確かな約束があるのです。ここに希望をつないで、今ある生を喜びの内に受け入れることができるのです。ここに悲しみから自由にされていく真理が与えられているのです。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(8:32)とあるように、です。
 復活とは本当のところ何なのか、という大きすぎるテーマを一気に述べることは難しいです。少なくとも、今日のテキストから示されているのは、復活の主イエスから名前を呼ばれていること。ここから認識される方こそが、唯一のキリストなのだということです。このマグダラのマリアが誰であり、どのような人であったのかについては教会の解釈の歴史の中で肥大化されており諸説ありますが、4福音書から読み取れる限りで確からしいこととは、ガリラヤでの活動初期から主イエスと行動を共にしていた人であることくらいです。初期の活動から十字架に至る途上における主イエスの振る舞いと言葉の、身近な目撃者として共に歩んできたことです。いのちの根源を尊重し抑圧に抵抗するなどの主イエスの闘いの同伴者であったのです。
 復活とは、主イエスの歩みが十字架刑による死によって終焉を迎えたことを悲しみ泣くことに留まるのではない、ということです。その死の事実を展開点として、マリアは、「マリア」との呼びかけによって振り向き、「ラボニ」=「先生」として生前の主イエスのあり方を再確認することができたのです。ここでの「振り向いて」とは、ただ単に所作だけのことではありません。生前の主イエス総体を振り返る、さらにはかつての出会いを思い起こし、今のこととして新しい生き方の可能性が広がりゆくことの承認であったのではないでしょうか。復活の主イエスの呼びかけに応える、このマグダラのマリアの「振り向いて」という姿勢は、新しく生きることへの促しに対する信仰告白であったとさえ思えてきます。
 この「振り向いて」という姿勢は、マグダラのマリアだけに閉じられているのではありません。ヨハネによる福音書を通して語られる復活日のメッセージに与る、すべての人に関わる出来事です。今日は、主イエス・キリストの復活を記念し、祝う日です。今一度、わたしたち一人ひとりが、自分の名を復活の主イエスが呼びかけてくださっていることを信じ、確認したいと願っています。振り返ればそこに復活の主イエスが、あなたがたのところに実在していることに気付かされるはずですから。

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