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2020年3月 8日 (日)

マタイによる福音書 5章21~26節 「<今>を生きるために」

 「殺すな」という規定は確かに十戒にあります。しかし、物理的に殺さなければそれでいいのか、という問題意識があるようです。その人の存在のありようを認めないことは「殺し」と同じではないのか、というのです。この人を貶める方向を「兄弟に腹を立てる者」「あなたを訴える者」として付加されていきます。23節の「だから」という展開の仕方は分かりづらいのですが、「仲直り」「和解」することによって関係を整え、捉えかえすことによって「殺すな」の内実を深めているのだと思われます。そうでなければ裁きから決して逃れられないという半ば脅しのような言葉が語られます。
 ここで主イエスが禁じられている「馬鹿」や「愚か者」と言っても実際は何事も起こりません。仲直りしなくても何の問題も起こりません。ここで問題になっているのは、人間の関係のありようについてです。ただ単に馬鹿とか愚か者と言わなければいいのかということでもあります。相手の存在を認めた上での場合と全否定した上での場合では、「馬鹿」「愚か者」という言葉の意味が変わってきます。本田哲郎の訳したマタイ福音書の当該箇所の小見出しは、「仲間を見下げる思いがあるかぎり、律法を守ったことにはならない」となっています。相手を低く見て発する言葉自体が「殺すな」に抵触すると主イエスは語っているのです。ギターやウクレレでコードを押さえてポローンと弾くことをストロークと言いますが、ストロークの仕方によって音色が変わります。人に対する自分の側からの接し方にたとえることができます。
 つまり、人に対するストロークの基本は主イエスにあっては遜りと謙遜にこそあるからこその発言なのです。この点についてパウロは次のように述べます。【そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。】(フィリピ2:1-5)。
 すなわち、今日のテキストの中心は、「殺すな」の徹底として、主イエスに倣う道の途上で遜りと謙遜という根本に<今>を生きているのかという問いかけなのです。

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