マタイによる福音書 5章27~32節 「対の関係を捉えなおす」
テキストは情欲と離婚を徹底して否定しています。姦淫してはならないことと離婚の禁止の教えを述べているように読めるのですが、違います。姦淫してはならない離婚してはならないということさえ守っていればいいのか、ということを突きつめ、律法を徹底化していく方向の中で無化していくのです。それは姦淫とか婚姻に関する法の秩序を解体していくという方向に向かうのではないでしょうか。
ただ、テキストで問題になっているのは、男の都合から語られた視点です。この時代、男の側にしか離婚する権限はありません。「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」とありますが、離縁状さえ渡せば、どんな些細な理由でも離縁できたのです。主イエスの指摘は、その法的な文言を根拠に簡単に婚姻関係を成立させたり破綻させたりすることでいいのか、ということ。そもそも離婚してはならないとしか言いえなかったところには、結婚自体に破綻があるのではないか、という指摘です。あなたとパートナーとのる結ばれ方が一体相応しいのかどうなのか根っこのところまで突き詰めて考えてみたらどうだ、という発想をもっているのではないでしょうか。
テキストのテーマの中心は、関係のありよう、とりわけ家族論にあるのではないかと思われます。家族をどのように捉えていくか、ということです。もちろん、家族を持たないという生き方もあるのですが、その場合でもどこかで誰かとの捨てがたい、どうにもならないような関係をもつこともあるでしょう。法的な秩序としての姦淫とか婚姻問題を通して、家族論の解体が語られます。マタイではイエスはその生涯において、律法の完成者となったということなのですが、このあり方は、律法を徹底していくことで無化する状態にもっていくのです。その中でさえ捨てきれない関係こそが大事だということです。この関係の中に何とかとどまりながらもう一度家族に帰っていくことで、家族を再構築する、そのように、現在の「家族」イメージを解体していくのです。
人間の力や知恵ではどうにもならない問題を「家族」というものは抱えています。自分の思い通りには関係は築くことができないのです。人間の基本的な関係において、自分の思い通りにはいかない現実があります。
夫婦という対の関係の中で物事を捉えていく時に、どのようにしたらいいのかと立ち止まり、悩んだりします。ここに嵌まり込んでいくのではなくて、別の物語の可能性を信じるところへの導きがあるのだと主イエスは語っているのではないでしょうか。主イエスは対の関係の歪みを冷徹に見抜いた上で一つの提案を語っているのです。新しい家族イメージを何度でも作り出していくことができると。その可能性に対して開かれていくことを願って厳しい言葉を語る主イエスを、わたしたちは受け止めることができるのではないでしょうか。
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