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2020年3月29日 (日)

マタイによる福音書 5章33~37節 「誓ってはならないのは何故か」

 今日のテキストは「誓ってはならない」との主張に読むことができますが、マタイ福音書は論点をずらしているのです。「然り、然り」「否、否」という言葉遣いがここにあります。二度返事というのは、日本語の感覚ではいい加減な態度として受け取られますが、ユダヤの感覚では、実質的に明確な誓いの形式です。ですから今日の箇書は「誓い」を禁止するのではなくて、実行可能で責任的な明快な誓いの推奨をしていることになるのです。しかし、これまで見てきた主イエスの行いと言葉から読み返すと、やはりここは「誓い」それ自体の無条件な禁止として読み取るべきだと思うのです。
 「一切誓うな」「そもそも誓うな」という言葉の根本思想を聞くところに集中すべきでしょう。
 広い意味での「誓い」は、社会的な関係を整え、秩序立てていくところには必ずつきまとう事柄です。主イエスがこれほど当たり前なことを知らなかったはずはありません。分かったうえで、あえて「一切誓うな」と断言しているのだと思えるのです。「誓い」に関わることによって人間関係や社会的な関係性が整えられなければならないのは、そうしなければ成立しないほど個々の人間は信用ならないものだということです。人間の言葉と行いには限界があり、人間はどのように誠実であろうとしても偽り、嘘つきなのです。この偽りと嘘を縛る秩序として「誓い」にまつわる事柄が発展してきたのかもしれません。言葉が薄っぺらになってきているからこそ、バラまかれたら拡散し毒をまき散らしていく。そして、そのためにさらに「誓い」にまつわる言葉が強化され、人々を不自由に縛り付け、権力ある者達の悪意ある「誓い」にまつわる言葉が強化される悪循環に陥る。このような状況に対して抗うあり方が、現代における「一切誓うな」という言葉に従うことではないでしょうか。
 それではどうすればいいのでしょうか。できることとは、「誓い」にまつわることが必要ではなくなる神の国を目指す途上を旅する教会にあって、主イエスの真実の言葉に信じ従い、真実の言葉を求めて自己検証しながら歩む他ないのではないでしょうか。まことの言葉がまことの肉になった主イエス・キリストによって招かれ生かされている現実。ここにおいて、「あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。」をユダヤ的な「誓い」ではなくて、言葉そのままに受け止めたいと思います。人間は、限定された存在です。「然り」は「然り」とし、「否」は「否」と、自分の責任において判断し、この世に向かって発言し、行動するキリスト者、また教会として歩んでいくことができるのだと信じます。

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