« 2020年2月 | トップページ | 2020年4月 »

2020年3月

2020年3月29日 (日)

マタイによる福音書 5章33~37節 「誓ってはならないのは何故か」

 今日のテキストは「誓ってはならない」との主張に読むことができますが、マタイ福音書は論点をずらしているのです。「然り、然り」「否、否」という言葉遣いがここにあります。二度返事というのは、日本語の感覚ではいい加減な態度として受け取られますが、ユダヤの感覚では、実質的に明確な誓いの形式です。ですから今日の箇書は「誓い」を禁止するのではなくて、実行可能で責任的な明快な誓いの推奨をしていることになるのです。しかし、これまで見てきた主イエスの行いと言葉から読み返すと、やはりここは「誓い」それ自体の無条件な禁止として読み取るべきだと思うのです。
 「一切誓うな」「そもそも誓うな」という言葉の根本思想を聞くところに集中すべきでしょう。
 広い意味での「誓い」は、社会的な関係を整え、秩序立てていくところには必ずつきまとう事柄です。主イエスがこれほど当たり前なことを知らなかったはずはありません。分かったうえで、あえて「一切誓うな」と断言しているのだと思えるのです。「誓い」に関わることによって人間関係や社会的な関係性が整えられなければならないのは、そうしなければ成立しないほど個々の人間は信用ならないものだということです。人間の言葉と行いには限界があり、人間はどのように誠実であろうとしても偽り、嘘つきなのです。この偽りと嘘を縛る秩序として「誓い」にまつわる事柄が発展してきたのかもしれません。言葉が薄っぺらになってきているからこそ、バラまかれたら拡散し毒をまき散らしていく。そして、そのためにさらに「誓い」にまつわる言葉が強化され、人々を不自由に縛り付け、権力ある者達の悪意ある「誓い」にまつわる言葉が強化される悪循環に陥る。このような状況に対して抗うあり方が、現代における「一切誓うな」という言葉に従うことではないでしょうか。
 それではどうすればいいのでしょうか。できることとは、「誓い」にまつわることが必要ではなくなる神の国を目指す途上を旅する教会にあって、主イエスの真実の言葉に信じ従い、真実の言葉を求めて自己検証しながら歩む他ないのではないでしょうか。まことの言葉がまことの肉になった主イエス・キリストによって招かれ生かされている現実。ここにおいて、「あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。」をユダヤ的な「誓い」ではなくて、言葉そのままに受け止めたいと思います。人間は、限定された存在です。「然り」は「然り」とし、「否」は「否」と、自分の責任において判断し、この世に向かって発言し、行動するキリスト者、また教会として歩んでいくことができるのだと信じます。

2020年3月15日 (日)

マタイによる福音書 5章27~32節 「対の関係を捉えなおす」

 テキストは情欲と離婚を徹底して否定しています。姦淫してはならないことと離婚の禁止の教えを述べているように読めるのですが、違います。姦淫してはならない離婚してはならないということさえ守っていればいいのか、ということを突きつめ、律法を徹底化していく方向の中で無化していくのです。それは姦淫とか婚姻に関する法の秩序を解体していくという方向に向かうのではないでしょうか。
 ただ、テキストで問題になっているのは、男の都合から語られた視点です。この時代、男の側にしか離婚する権限はありません。「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」とありますが、離縁状さえ渡せば、どんな些細な理由でも離縁できたのです。主イエスの指摘は、その法的な文言を根拠に簡単に婚姻関係を成立させたり破綻させたりすることでいいのか、ということ。そもそも離婚してはならないとしか言いえなかったところには、結婚自体に破綻があるのではないか、という指摘です。あなたとパートナーとのる結ばれ方が一体相応しいのかどうなのか根っこのところまで突き詰めて考えてみたらどうだ、という発想をもっているのではないでしょうか。
 テキストのテーマの中心は、関係のありよう、とりわけ家族論にあるのではないかと思われます。家族をどのように捉えていくか、ということです。もちろん、家族を持たないという生き方もあるのですが、その場合でもどこかで誰かとの捨てがたい、どうにもならないような関係をもつこともあるでしょう。法的な秩序としての姦淫とか婚姻問題を通して、家族論の解体が語られます。マタイではイエスはその生涯において、律法の完成者となったということなのですが、このあり方は、律法を徹底していくことで無化する状態にもっていくのです。その中でさえ捨てきれない関係こそが大事だということです。この関係の中に何とかとどまりながらもう一度家族に帰っていくことで、家族を再構築する、そのように、現在の「家族」イメージを解体していくのです。
 人間の力や知恵ではどうにもならない問題を「家族」というものは抱えています。自分の思い通りには関係は築くことができないのです。人間の基本的な関係において、自分の思い通りにはいかない現実があります。
 夫婦という対の関係の中で物事を捉えていく時に、どのようにしたらいいのかと立ち止まり、悩んだりします。ここに嵌まり込んでいくのではなくて、別の物語の可能性を信じるところへの導きがあるのだと主イエスは語っているのではないでしょうか。主イエスは対の関係の歪みを冷徹に見抜いた上で一つの提案を語っているのです。新しい家族イメージを何度でも作り出していくことができると。その可能性に対して開かれていくことを願って厳しい言葉を語る主イエスを、わたしたちは受け止めることができるのではないでしょうか。

2020年3月 8日 (日)

マタイによる福音書 5章21~26節 「<今>を生きるために」

 「殺すな」という規定は確かに十戒にあります。しかし、物理的に殺さなければそれでいいのか、という問題意識があるようです。その人の存在のありようを認めないことは「殺し」と同じではないのか、というのです。この人を貶める方向を「兄弟に腹を立てる者」「あなたを訴える者」として付加されていきます。23節の「だから」という展開の仕方は分かりづらいのですが、「仲直り」「和解」することによって関係を整え、捉えかえすことによって「殺すな」の内実を深めているのだと思われます。そうでなければ裁きから決して逃れられないという半ば脅しのような言葉が語られます。
 ここで主イエスが禁じられている「馬鹿」や「愚か者」と言っても実際は何事も起こりません。仲直りしなくても何の問題も起こりません。ここで問題になっているのは、人間の関係のありようについてです。ただ単に馬鹿とか愚か者と言わなければいいのかということでもあります。相手の存在を認めた上での場合と全否定した上での場合では、「馬鹿」「愚か者」という言葉の意味が変わってきます。本田哲郎の訳したマタイ福音書の当該箇所の小見出しは、「仲間を見下げる思いがあるかぎり、律法を守ったことにはならない」となっています。相手を低く見て発する言葉自体が「殺すな」に抵触すると主イエスは語っているのです。ギターやウクレレでコードを押さえてポローンと弾くことをストロークと言いますが、ストロークの仕方によって音色が変わります。人に対する自分の側からの接し方にたとえることができます。
 つまり、人に対するストロークの基本は主イエスにあっては遜りと謙遜にこそあるからこその発言なのです。この点についてパウロは次のように述べます。【そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。】(フィリピ2:1-5)。
 すなわち、今日のテキストの中心は、「殺すな」の徹底として、主イエスに倣う道の途上で遜りと謙遜という根本に<今>を生きているのかという問いかけなのです。

2020年3月 3日 (火)

ヨハネによる福音書 5章8節 「ジンバブエを覚えて」

~世界祈祷日を覚えての、子どもとおとなの合同礼拝

 ジンバブエという国ができたのは1980年、今年で40年になります。本日の聖書で病気の人が苦しんでいたのは38年とありますから、ジンバブエの教会の人たちは、この人に自分たちの国の姿を重ね合わせて読んだのだと思います。戦いが繰り返され、自分勝手な指導者の言いなりになっている苦しみから「良くなりたいのです」と答えたいと思ったのではないでしょうか。この病気の人がイエスの言葉の力で病気が治ったように、自分たちも元気になって喜んで暮らせるようになりたいし、そのことを誰よりも分かっていてくださるイエスを信じていきたいと願っていたのでしょう。
 ジンバブエは1980年に建国されました。それ以前は約130年間イギリスの植民地でした。アフリカの大地はとても豊かです。ジンバブエは、石炭や鉱物などの天然資源、またトウモロコシや綿花、麦やコーヒーなどの農作物もたくさん取れます。その豊かなものを全部持っていかれるので人々は貧しさや苦しさを味わわなくてはなりませんでした。そこで、イギリスの支配から自由になるための働きが起こってきて1980年にジンバブエ共和国としてイギリスから独立したのです。しかし、そこで暮らす人々は自由になったのではありません。大統領になったムガベが、独裁者として国を治めたのです。みんなが幸せになり、豊かになることではなくて、強者だけが豊かさを独り占めするようにして国を作っていったのです。それが2017年まで続きました。
 新しい大統領が2018年に選ばれてジンバブエは変わりつつあるのが今ということになります。でも、まだまだジンバブエの国の人たちの貧しさや苦しさは大きいのです。病気の人や女の人や子どもなど、立場の弱い人たちに対しては優しい国になってはいないのです。
 イエスが、2000年前に38年間も病気だった人に「良くなりたいか」と声をかけたことが、今のことだとジンバブエの教会は信じているのでしょう。そして、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」、この言葉も今のこととして真剣に受け止めています。「床をかついで」という言葉から「自分にできることをして一歩を踏み出し、苦しみから離れなさい」というメッセージを聞いているのです。このつらくて厳しい国での暮らしが良くなっていくこと、特に弱い立場にある人たちが、今生きていることを喜びと感謝の内に生きられるような国になっていくことを祈りながら求めていくことを、日本に暮らすわたしたちにも求められているのです。

2020年3月 1日 (日)

マタイによる福音書 5章17~20節 「律法の完成者イエス」

 新約聖書の中で「罪人」という言葉が用いられていますが、律法とその解釈を守らない、守れない人のことを言います。立場が弱い人や貧しい人の生活では細かい規定の律法は守れないのです。それに対してイエスは安息日には働いてはならないことを知ったうえであえて挑戦的に、急を要することのない慢性の病気を安息日に癒すのです。
 律法は良きものですが、「ねばならない」という強制的な力が働くことによって、歪められてしまったのです。これに対して、イエスは否と身体ごと語ったのです。イエスは律法違反をしているのに、5:17で「廃止するためではなく、完成するためである。」と語っているのはおかしいと指摘する向きもあるでしょう。しかし、イエスは「律法主義」の中にある、信仰理解の歪みのようなものを指摘しているのではないでしょうか。つまり、「強制的律法主義」の中で、本当に信じなければいけないのが歪められてしまっている。あたかも律法自体が神であるかの如くなってしまっている、この信仰理解の歪みに対して、今一度神ご自身に立ち返ろうという提案ではないでしょうか。
神の律法の本質とは、人となったイエス・キリストです。律法がイエス・キリストという人となった事実。その振る舞いと言葉という存在そのものが律法の完成なのだということです。神を愛し、隣人を愛す(22:34-40)という広がりの中に身を委ねていくことをもって、「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ」(5:20)の道を歩めということなのです。キリスト者はイエス・キリストの守りのうちにあって自由であるということ、そして自由に向かって歩んでいく方向に、もうすでに導かれてしまっているということです。どのような道か。それはもちろん、イエス・キリストの振る舞いと言葉、さらには極みとしての十字架と復活という出来事があるのですが、本田哲郎は、その訳した福音書(5:7-20)に小見出しを付け、「抑圧からの解放のあゆみで律法の発想を越えよ」と解釈しています。つまり、規則とか「○○主義」とかによって、人のいのちとか人のあり方とかが抑圧されるものではなく、律法の完成ということは、「律法主義」から自由になることから、それぞれが与えられている「罪人」として断罪され、疎外されているいのちをかけがえのないものとして受け止め直し、実践していく生き方こそが律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる生き方なのだ、ということです。ここにこそ、律法の完成者としてのイエスがあるのです。

« 2020年2月 | トップページ | 2020年4月 »

無料ブログはココログ