マタイによる福音書 5章17~20節 「律法の完成者イエス」
新約聖書の中で「罪人」という言葉が用いられていますが、律法とその解釈を守らない、守れない人のことを言います。立場が弱い人や貧しい人の生活では細かい規定の律法は守れないのです。それに対してイエスは安息日には働いてはならないことを知ったうえであえて挑戦的に、急を要することのない慢性の病気を安息日に癒すのです。
律法は良きものですが、「ねばならない」という強制的な力が働くことによって、歪められてしまったのです。これに対して、イエスは否と身体ごと語ったのです。イエスは律法違反をしているのに、5:17で「廃止するためではなく、完成するためである。」と語っているのはおかしいと指摘する向きもあるでしょう。しかし、イエスは「律法主義」の中にある、信仰理解の歪みのようなものを指摘しているのではないでしょうか。つまり、「強制的律法主義」の中で、本当に信じなければいけないのが歪められてしまっている。あたかも律法自体が神であるかの如くなってしまっている、この信仰理解の歪みに対して、今一度神ご自身に立ち返ろうという提案ではないでしょうか。
神の律法の本質とは、人となったイエス・キリストです。律法がイエス・キリストという人となった事実。その振る舞いと言葉という存在そのものが律法の完成なのだということです。神を愛し、隣人を愛す(22:34-40)という広がりの中に身を委ねていくことをもって、「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ」(5:20)の道を歩めということなのです。キリスト者はイエス・キリストの守りのうちにあって自由であるということ、そして自由に向かって歩んでいく方向に、もうすでに導かれてしまっているということです。どのような道か。それはもちろん、イエス・キリストの振る舞いと言葉、さらには極みとしての十字架と復活という出来事があるのですが、本田哲郎は、その訳した福音書(5:7-20)に小見出しを付け、「抑圧からの解放のあゆみで律法の発想を越えよ」と解釈しています。つまり、規則とか「○○主義」とかによって、人のいのちとか人のあり方とかが抑圧されるものではなく、律法の完成ということは、「律法主義」から自由になることから、それぞれが与えられている「罪人」として断罪され、疎外されているいのちをかけがえのないものとして受け止め直し、実践していく生き方こそが律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる生き方なのだ、ということです。ここにこそ、律法の完成者としてのイエスがあるのです。
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