マタイによる福音書 5章9~12節 「平和を求める道には…」
「平和」とは、単に誰彼を傷つけたり殺したりしないということではありません。イエス・キリストにおける遜りと謙遜において自らを相対化し、相手と同じ視線・同じ地平に立つ、ないしはより弱くされている人、より小さくされている人と同じ場に寄り添っていく、そのあり方において「平和」は実現されていくし、そのような道をキリスト者は歩むことができるのです。それは「インマヌエル(神は我々と共に)」なのであり、イエス・キリストの生涯を貫かれたあり方なのだということです。
このあり方をパウロはフィリピの信徒への手紙において語っています。【キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。】(フィリピ2:6-8)このような生き方は以下の主イエスの言葉に表されています。【疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。】(マタイ11:28-30)
神が「聖」「完全」「正しい」のであるから、掟・教え・戒めに従っていくことにおいて「義」が貫かれるとの考え方があります。これがラビのユダヤ教の中では、「律法主義」として展開していくのです。ところが、イエスの場合、その伝統の中で一見精神化・観念化しているように見える「義」というものを「山上の説教」において前進させるのです。この「人々」、すなわち、「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「 義のために迫害される人々」とは誰でしょうか。それは、遜りの主イエスに倣って、謙遜に生きていく仕方で対人関係や対社会関係を作ることで相手を尊重していく「人々」です。「幸い」という言葉に包まれて守られているから、その道に歩む備えがあるということです。この道を選び取るようにとの招きがあるのです。
「幸い」の説教を今のこととして受け止めていくのであれば、この時代のただ中にあってわたしたちの生きるべき課題の欠片がわたしたちの心の何処かに備えられていくに違いないのです。この道に向かってわたしたちは、主イエス・キリストの後を追う者として「平和を実現する人々」の一人に加えられていることを信じたいと思います。
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