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2020年1月19日 (日)

マタイによる福音書 5章3節 「心の貧しい人々」

 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」との言葉に集中したいと思います。「心の」と訳されている言葉は、直訳すれば「霊において」となります。これをマタイはただ単に内面的、精神的に閉じられるものとしてではなく、生き方全体に対する促しであると語っていると思います。「幸い」と語り続けているのは主イエスであると信じるからです。主イエスの信仰から発せられる、叫びともいえる「幸い」という言葉によって、わたしたちの信じる気持ちが整えられるのです。今置かれている状況に対する責任的あり方と呼んでもいいかもしれません。
 「心の貧しい者」とは、「依り頼むものが神しかない者」と解釈されています。そしてこれは従来、内面の問題と捉えられてきましたが、この姿勢を徹底するならば、個人から抜け出して社会的広がりとか共鳴とかをもたらすものだと受け止められないでしょうか。
 主イエスの「幸い」という宣言は、わたしたちにはこの世における「貧しさ」に対して責任があるという、罪の認識を明らかにするのだということです。さらにその罪の認識を教会の共通認識へと向かわせるのです。
 「幸い」という宣言は、わたしたちを社会的な「貧しい人々」である、より弱くされた者、より小さくされた者のいのちのつながりへと導くのです。主イエスご自身が、そのような意味において「心の貧しい人々」の一人であったし、そのような責任性に生きたのであり、ここにこそ「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」この言葉の真意があると思います。
 「幸いである」というイエス・キリストの宣言によって、この世における責任を生きることへの道筋が整えられつつあることを、わたしたちは知らされているのです。天の国とは、具体的隣人との関係性の中にこそ展開されていく共同性のことです。

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