コリントの信徒への手紙二 1章15~22節 「アーメン―使徒信条講解25」
パウロが何度かコリントに行く計画をしている中で語られたのが、今日のテキストです。お互いがお互いを認め合う仕方でアーメンとして同意における一致のことがらを心の底から作り出していくことをパウロは願っています。コリント教会には色々な問題があり、コリントの信徒への手紙一の14章で問題になっているのは異言に関する事柄です。異言を語ることによって教会の言葉が通じなくなることや、教会の思いがイエス・キリストに同意するという一致から外れてしまうことを懸念していたのです。正しく翻訳できる人がいない限り、異言は通じる言葉として扱われないので、教会という信仰における一致を妨げるものであるから慎むようにと言うのです。
使徒信条を受け入れることで「わたし」と「わたしたち」の関係が整えられる、そのことをキチンと捉え返すことがアーメンなのだろうと思います。
そこでヒントとなるのが、イエス自身のアーメンの使い方です。アーメンは「本当に」「確かに」「よく」という意味です。「新共同訳」では翻訳上分かりにくいのですが、しばしば、イエスの言葉で「はっきり言っておく」とあるところは、直訳すれば「アーメン、わたしはあなたがたに言う」となる箇書があるのです。
イエスが主体的に発言する時にはアーメンというのです。子どもを招く記事(10:13-15)、やもめがささげる(12:41-44)ことへの抗議、イエスの死という出来事を前もって示すナルドの香油の記事(14:3-9)、これらは、イエス自身が「アーメンである」と証言しているということです。
イエスの場合のアーメンとは、独善的にではなく自らが主体的に選び取っていく生き方を示す。それは「わたし」というものを貫くことによって、イエスによって拓かれる「わたしたち」を導き出そうとしているのではないでしょうか。「わたしたち」という時に、どういう「わたしたち」であろうか。長いものに巻かれろ、とか自分を殺してまで共同体に自分を合わせて行くような「わたしたち」あるいは、自分の正義だけを振りかざす仕方で「わたし」が「わたしたち」を従えたいという意志を貫くのではありません。「わたし」と「わたしたち」が調和していくようなあり方としての共同体形成をアーメンというイエス・キリストが導こうとしていると思います。この「わたし」と「わたしたち」という関係を取り持つのが、アーメンであるイエス・キリストであることを今日は確認したいと思います。
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