マタイによる福音書 5章1~2節 「山上の説教を生きるために」
マタイ福音書には一貫した主張があります。これは以下の記述から理解されます。すなわち、降誕物語の1:23の【「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。】から、最後の28:20の【あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。】とあるとおりです。このイエス・キリストにおいて「神が我々と共にいる」現実がどこにあるのかをマタイは「言葉」だと判断しています。
マタイとマルコを比べて、文脈の違いから判断すると、マルコ1:23でのイエスの教えの「権威」とは奇跡にポイントが絞られていますが、マタイ7:29では5章から7章に至る「山上の説教」としての「教え」としての「言葉」なのだ、というのです。
マタイにおいて「山」は「教会」を強く暗示させます。モーセが十戒をいただいたシナイ契約を踏まえているのです(出エジプト記24章など)。マタイは自分たちこそ「まことのイスラエル」であるとの自己理解に立っているのでしょう。100から出ていった1の羊のたとえにしても、ルカでは「野原」である「荒れ野」に捨てておくイメージですが、マタイは「山に残して」と「教会」において守っておくのだと考えているのです。マタイではイエスの「教え」のまとめの言葉が5つあります(7:28、11:1、13:53、19:1、26:1)。これらをモーセ5書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)と対応させているという説があり、なるほどと思わされます。かつての旧約の律法がイエスの「教え」において成就しているというのでしょうか。
特に最初のイエスの「教え」である「山上の説教」こそが、28:20の「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」の「命じておいたこと」としての「教え」の中心的内容を示しているのでしょう。
イエスの命じておいた「教え」に生かされている現実において「神が我々と共におられる」こと。とりわけ、教会の存在意義はここにこそあるのだというのでしょう。
これからしばらくの間は、「山上の説教」から、この<今ここで>を生き抜くための知恵を、そしてヒントを与えられたいと願っています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」との主イエス・キリストの言葉のリアルから軸足を反らすことなく、証し人として招かれていることを自覚し、共々祈り合い、歩んでいきたいと願っています。山上の説教を生きるためにこそ。
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