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2020年1月

2020年1月26日 (日)

使徒言行録 7章43~53節 「畏れとは‥」 井谷淳

 私達は「キリスト者」として毎週教会にかよっています。しかし私達のキリスト教会の歴史を鑑みると時として非常に「血なまぐさい争いの爪痕」が存在する事実も否定はできません。代表的なものが宗教改革時の「新教」「旧教」の争いであり、世界各地(北米、中南米、アジア地域)における「キリスト教植民地主義」政策下での先住民族の犠牲者の方々の存在等、様々な角度で「負の歴史」「負の遺産」が照射されてゆくのではないでしょうか。本日の説教箇所は使徒ステファノの説教のクライマックスでありこの直後、律法主義者の「私刑」により殺害されてゆきます。「キリスト教の側」ではステファノの死は「尊い殉教」でありますが、「ユダヤ教ファリサイ主義の側」からは「律法違反者」に対する「当然」の「排除・粛清」であり、彼等の心理の根底にはステファノは公式な裁判を経る事なく「私刑」という形で「処断」しても構わないという「宗教的気運」が存在していたのでしょう。この「宗教的気運」は「先鋭的律法主義者達」をバックアップする当時のユダヤ社会の「或る階層」の最大公約数的な「共通意識」でもありました。この「共通意識」の根底に流れていたのは「ユダヤ教メインライン」的「正義」であります。ステファノは「神殿批判」を公然と行い「繁栄と権威」の「象徴」であるエルサレム神殿を「信仰的象徴」として依拠している人々の「信仰体系」を「神の意」に反するものであると糾弾していました。現実的観点から「エルサレム神殿の繁栄」の恩恵に預かっている人々は確実に当時のユダヤ社会の「中核的な存在」であります。方や「荘厳なエルサレム神殿」に象徴される「国家ユダヤ」が存在する事によって生活が逼迫し、只「搾取・収奪構造」の犠牲となってゆく人々も多く存在していました。つまりこの問題の「エルサレム神殿」をめぐって「利害関係が不一致」な「社会的二層構造」が存在していたのであります。神殿体制の恩恵に預かっていた人間にとって「神殿の繁栄」或いは「国家ユダヤ」の「繁栄」は彼等にとって紛れもない「必要不可欠な実存」であり「信仰的正義」でありました。しかし「正義」という言葉は「或る立場性」をもった人間が「自身の立脚点」を「正当化、安定化」させる為の「概念用語」に過ぎません。いわば人間の「この世的」な「立場性」、「状況性」によって左右されてしまう「言葉」であります。本日の説教題の「畏れ」における「神への畏れ」は「恐怖」の「恐れ・怖れ」とは異なります。「神」のもたらす「義」に対する「畏敬の念」が「真の信仰」であるとステファノの論説は主張します。エルサレム神殿のあり方はこの「畏れ」を「施政者のもたらす恐怖」に転換させ、「恐怖」を中央集権的国家体制を安定させる為の「権威」に転換させてゆきました。そしてこの「権威」を正当化する為の「ユダヤ教教理体系~律法遵守」を「信仰的正義」として「制度的位置付け」を行ったのです。よってステファノを「私刑」によって処断した「ファリサイ主義者達」は自分達の「紛れもない信仰的正義」を「施行」しユダヤ教ファリサイ主義的「聖別」をステファノに「施した」のであります。冒頭で「キリスト教の負の歴史」について言及致しましたが、「キリストの正義の十字架」を掲げて「先住民や異教徒の方々を殺戮していったキリスト教会」のあり方と「ステファノを私刑によって処断したファリサイ主義者達」の間に一体どれ程の相違性があるのでしょうか?両者が「共通して標榜」しているのは「理念」としての「信仰的正義」であります。「キリスト教会」の「権威とされる方々」や「末席に身を置かせていただいている私自身」ですらも、大上段に「己の信ずる正義」を振りかざす「危険性」があるという事も踏まえて非論理化されし「真の神の義」は「人間の価値」に基づく「正義」という「言葉」から「及びもつかない場所」にあると改めて感じさせられるのであります。

2020年1月19日 (日)

マタイによる福音書 5章3節 「心の貧しい人々」

 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」との言葉に集中したいと思います。「心の」と訳されている言葉は、直訳すれば「霊において」となります。これをマタイはただ単に内面的、精神的に閉じられるものとしてではなく、生き方全体に対する促しであると語っていると思います。「幸い」と語り続けているのは主イエスであると信じるからです。主イエスの信仰から発せられる、叫びともいえる「幸い」という言葉によって、わたしたちの信じる気持ちが整えられるのです。今置かれている状況に対する責任的あり方と呼んでもいいかもしれません。
 「心の貧しい者」とは、「依り頼むものが神しかない者」と解釈されています。そしてこれは従来、内面の問題と捉えられてきましたが、この姿勢を徹底するならば、個人から抜け出して社会的広がりとか共鳴とかをもたらすものだと受け止められないでしょうか。
 主イエスの「幸い」という宣言は、わたしたちにはこの世における「貧しさ」に対して責任があるという、罪の認識を明らかにするのだということです。さらにその罪の認識を教会の共通認識へと向かわせるのです。
 「幸い」という宣言は、わたしたちを社会的な「貧しい人々」である、より弱くされた者、より小さくされた者のいのちのつながりへと導くのです。主イエスご自身が、そのような意味において「心の貧しい人々」の一人であったし、そのような責任性に生きたのであり、ここにこそ「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」この言葉の真意があると思います。
 「幸いである」というイエス・キリストの宣言によって、この世における責任を生きることへの道筋が整えられつつあることを、わたしたちは知らされているのです。天の国とは、具体的隣人との関係性の中にこそ展開されていく共同性のことです。

2020年1月12日 (日)

マタイによる福音書 5章1~2節 「山上の説教を生きるために」

 マタイ福音書には一貫した主張があります。これは以下の記述から理解されます。すなわち、降誕物語の1:23の【「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。】から、最後の28:20の【あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。】とあるとおりです。このイエス・キリストにおいて「神が我々と共にいる」現実がどこにあるのかをマタイは「言葉」だと判断しています。
 マタイとマルコを比べて、文脈の違いから判断すると、マルコ1:23でのイエスの教えの「権威」とは奇跡にポイントが絞られていますが、マタイ7:29では5章から7章に至る「山上の説教」としての「教え」としての「言葉」なのだ、というのです。
 マタイにおいて「山」は「教会」を強く暗示させます。モーセが十戒をいただいたシナイ契約を踏まえているのです(出エジプト記24章など)。マタイは自分たちこそ「まことのイスラエル」であるとの自己理解に立っているのでしょう。100から出ていった1の羊のたとえにしても、ルカでは「野原」である「荒れ野」に捨てておくイメージですが、マタイは「山に残して」と「教会」において守っておくのだと考えているのです。マタイではイエスの「教え」のまとめの言葉が5つあります(7:28、11:1、13:53、19:1、26:1)。これらをモーセ5書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)と対応させているという説があり、なるほどと思わされます。かつての旧約の律法がイエスの「教え」において成就しているというのでしょうか。
 特に最初のイエスの「教え」である「山上の説教」こそが、28:20の「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」の「命じておいたこと」としての「教え」の中心的内容を示しているのでしょう。
 イエスの命じておいた「教え」に生かされている現実において「神が我々と共におられる」こと。とりわけ、教会の存在意義はここにこそあるのだというのでしょう。
 これからしばらくの間は、「山上の説教」から、この<今ここで>を生き抜くための知恵を、そしてヒントを与えられたいと願っています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」との主イエス・キリストの言葉のリアルから軸足を反らすことなく、証し人として招かれていることを自覚し、共々祈り合い、歩んでいきたいと願っています。山上の説教を生きるためにこそ。

2020年1月 5日 (日)

コリントの信徒への手紙二 1章15~22節 「アーメン―使徒信条講解25」

 パウロが何度かコリントに行く計画をしている中で語られたのが、今日のテキストです。お互いがお互いを認め合う仕方でアーメンとして同意における一致のことがらを心の底から作り出していくことをパウロは願っています。コリント教会には色々な問題があり、コリントの信徒への手紙一の14章で問題になっているのは異言に関する事柄です。異言を語ることによって教会の言葉が通じなくなることや、教会の思いがイエス・キリストに同意するという一致から外れてしまうことを懸念していたのです。正しく翻訳できる人がいない限り、異言は通じる言葉として扱われないので、教会という信仰における一致を妨げるものであるから慎むようにと言うのです。
 使徒信条を受け入れることで「わたし」と「わたしたち」の関係が整えられる、そのことをキチンと捉え返すことがアーメンなのだろうと思います。
 そこでヒントとなるのが、イエス自身のアーメンの使い方です。アーメンは「本当に」「確かに」「よく」という意味です。「新共同訳」では翻訳上分かりにくいのですが、しばしば、イエスの言葉で「はっきり言っておく」とあるところは、直訳すれば「アーメン、わたしはあなたがたに言う」となる箇書があるのです。
 イエスが主体的に発言する時にはアーメンというのです。子どもを招く記事(10:13-15)、やもめがささげる(12:41-44)ことへの抗議、イエスの死という出来事を前もって示すナルドの香油の記事(14:3-9)、これらは、イエス自身が「アーメンである」と証言しているということです。
 イエスの場合のアーメンとは、独善的にではなく自らが主体的に選び取っていく生き方を示す。それは「わたし」というものを貫くことによって、イエスによって拓かれる「わたしたち」を導き出そうとしているのではないでしょうか。「わたしたち」という時に、どういう「わたしたち」であろうか。長いものに巻かれろ、とか自分を殺してまで共同体に自分を合わせて行くような「わたしたち」あるいは、自分の正義だけを振りかざす仕方で「わたし」が「わたしたち」を従えたいという意志を貫くのではありません。「わたし」と「わたしたち」が調和していくようなあり方としての共同体形成をアーメンというイエス・キリストが導こうとしていると思います。この「わたし」と「わたしたち」という関係を取り持つのが、アーメンであるイエス・キリストであることを今日は確認したいと思います。

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