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2019年12月

2019年12月29日 (日)

マルコによる福音書 7章24~30節 「福音の内実-異邦人女性に呼応したイエス」 横田幸子(隠退教師・波田教会協力牧師)

この物語から考えさせられる3点。
①イエスの人間性。福音書の中で、普通のわたしたちと同じような人間性が描かれているのは、この物語と、11章のいちじくの実のないことへの落胆ぶりと、それに続く、神殿広場で商売している人への怒り、14章のゲッセマネの祈りのところで、死を前にした心情を3人の弟子たちに吐露しているところでしょう。
 キリスト教の教義には「イエスは神にして人」(451年の公会議で決定)とありますが、これは理性では受け入れがたい言葉です。この教義を受け入れられるのは、神からの助けがあって可能(381年の公会議で「三位一体」なる神告白が決定)。
 ともすれば、イエスの「神の子」性のみが強調され、奇蹟行為が当然のイエス像を主流とする「福音宣教」に疑義を呈したい。
②イエスは、ユダヤ人としての潜在的な優越感が、異邦人女性との対応によって砕かれ、イエスの本来的な神の力がひき出されていると思われます。
③イエスが思わず差別感情を露呈してしまいましたが、それが両者の分裂に至らず、それを乗り越えられる道筋を示されました。向かい合う相手が、子どもであれ、異邦人であれ、障がい者であれ、その人自身のありのままに対峙する必要性を促されませんか。

2019年12月24日 (火)

 ルカによる福音書 2章8~20節 「恐れるな!」

 わたしたちが通常考える「恐れ」とは、貧しさ・病気・人間関係の拗れなどがあります。また、生活には何一つ不自由はないのだけれど充足感を得られず神秘的なことに心惹かれていくこともあるかもしれません。このようなあり方全般を、わたしたちは「恐れ」という言葉のくくりの中に入れることができるかと思います。かの羊飼いたちもそうだったでしょう。元々ユダヤ教の伝統の中では、羊飼いは尊い職業とされていました。しかし、時代の移り変わりの中で、2千年前くらいには軽蔑され、貶められていたことが分かります。ユダヤ教の教えを守ることができないこともあります。たとえば、安息日には仕事をしてはならないという規定は、羊の世話を休むことはできませんから、当然守ることはできません。羊飼いたちは清潔な身なりをしているわけでもありません。羊が畑を荒らすこともあったでしょう。そもそも羊は羊飼いたちの所有であったのではなくて委託されて育てていたとすると、商品にならなくなったり、死んだりしたら、弁償しなければならなくなったでしょう。「夜通し羊の群れの番をしていた」とあるように、羊を襲う獣たちから守ることなどに心を砕き、心休まる余裕もなかったはずです。また、裁判の証人になる資格もないとユダヤ教の学者たちは判断していました。いわば、当時の社会の中で差別された人たちであったのです。その意味で、彼らの生活もわたしたち同様の「恐れ」の中での暮らしに生きていたのです。
 その彼ら、羊飼いたちが、日常の中にある「恐れ」を超えた「恐れ」に包まれるのです。「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので」とある、神の表れともいうべき事態に襲われたがゆえに、大いなる「恐れ」が起こったのです。この「恐れ」とは、神の前には自らの存在は取るに足らないものであることが明らかにされる体験のことです。人間の力では、考え得る以上のこと、想像を遥かに越えた知ることのできない事柄が存在するということを、信じざるを得ない地点に追い込まれることを意味します。この時、わたしたちが日常的に考えている「恐れ」は、神の明らかにするところの「恐れ」によってのみ込まれてしまうのです。大いなる「恐れ」によって、小さな「恐れ」が飲み込まれてしまうのです。いわば、神の現臨の与える「恐れ」によって、日常の「恐れ」が相対化されていくのです。
 その上で語られるのが、「恐れるな」という言葉です。神の前で正しく「恐れ」ることによって、自らのあり方を相対化したうえで、「恐れるな」という言葉によって導かれていく方向性が与えられるのです。神の前での「恐れ」を踏まえた上で、改めて「恐れるな」という言葉が語られています。この時に、神の前にあって、「恐れるな」という言葉が、わたしたちの心に沁みてくるのです。もう何も心配しなくても、あなたはそのままでイエス・キリストの神からの守りの中に移されてしまっているのだと気が付かされていくのです。人間は自分で自分を救うようにしては、大いなる「恐れ」からも小さな「恐れ」からも自由にはなれないのです。「恐れるな」という言葉は、どのような状況下にあっても心の奥底には平安が備えられているという宣言です。

2019年12月 8日 (日)

ルカによる福音書 1章26~38節 「お言葉どおり」

 マリアが懐妊したことは、当時のユダヤ教の習慣からすれば、一つのスキャンダルです。ひどい場合は石打ちの刑にもなりかねなかったのです。にもかかわらず、マリアは「お言葉どおり」という風に心が整えられていくのです。天使ガブリエルの言葉「恵まれた方。主があなたと共におられる。」(28節)に対し、マリアは「いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」とあります。続いて天使は「あなたは神から恵みをいただいた。」(30節)と語ります。しかし、客観的にみれば、どこに「恵み」があるというのでしょうか。わたしたちの感覚からすれば「恵み」と言われると、自分にとって嬉しいこと・幸せであること・好都合なことなどを思い描きます。いったい自分に何が語られるのか、自分の身に何が起こっているのか、戸惑うマリアに天使は「恵み」だと言うのです。どこが「恵み」なのでしょうか、わたしの将来はどうなってしまうのでしょうか、との思いを、しかしマリアは吹っ切り、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えていくのです。通常であれば、「恵み」だとはとても考えられないことをあえて信仰において「恵み」として受け止めていく、このことによって新しい道が開けてくる、新しい可能性へと自らを拓いていく、これらが起こっていくということです。
 マリアに対する天使からの宣言に対する「お言葉どおり」との反応の背後には、この身に神の歴史が介入してくることに対して、信頼において委ねていこう、お任せしていこう、わたしは主の言葉に従っていきます、という一つの決断がここにはあるのです。この決断というのは、主イエスを生むという、産む性としてのマリアが選んだ道でもありましたが、実は既に主イエスの生涯の先取りがここには表わされています。
 主イエスは十字架刑直前、逮捕される前に「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈ったのです。これは、この苦しみと死を拒絶する言葉であり、マリアの「どうしてそんなことが起こりえましょうか」という問いの言葉として対応しています。さらに主イエスの「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」はマリアの「お言葉どおり、この身に成りますように。」と受容において対応するのです。この根拠は、1:37の「 神にできないことは何一つない。」です。神は全能であるから、この身に起こることがたとえ理不尽に思えることであったとしても、その背後に人間の力では知ることのできない、神の深い配慮があるのだから「神にできないことは何一つない。」という、その神の思いであるならば、そこに向かってマリアの場合は「お言葉どおり」、イエスの場合は「御心のままに」と。神の愛は、マリアの姿に対して「強いられた恵み」をもって臨んでおられるのです。

2019年12月 1日 (日)

ルカによる福音書 1章5~25節 「歴史は動いている」

 天使との出会い損ねによってザカリアは口が利けなくなりました。言葉が出せなくなった気持ちはなかなか推し量ることはできませんが、やがてしるしが実体化するその時に明らかにされるまでは神との関係を整える時を待つという経験をしたのではないでしょうか。ザカリアの心は内面に向かって、自分は確かに、律法において神の前にあって義人として認められ、非のうちどころがないと言われていたけれども、それは他者からの評価であって、神の前にあって自分が本当にそうなのかを問い続けたのではないでしょうか。神を愛し隣人を愛す生き方を選んできたのだけれども、自分の弱さとか至らなさ、そしてまた試練というものを、いつか与えられる約束ないしは答えに向かって待つことによって自らを整えていったのではないでしょうか。だからこそ、待つという経験において洗礼者ヨハネの誕生の時に語ることができるようになった喜びがあふれた「ザカリアの賛歌」へとつながるのです。待つことにおける試練から賛美に至る、そのプロセスが重要だったのです。
 喜びが賛美・叫びとして転じていくこのザカリアの姿を、わたしたちのこととして理解できないでしょうか。必ずその人がやってくるという信頼がない限り、待つことはできません。確実に来てくださる方が近づいていることに根拠があります。だから安心して待つことができるのです。
 アドベントという言葉の意味は、「近づく」から来ているようです。必ず来てくださるから待つことができるのです。ただし、わたしたちがクリスマスの主イエス・キリストに相応しいかどうか、自らを省みることを忘れてはならないと思います。ただボーッと待つのではなく。わたしたち一人ひとりが持っている課題に対して、いつか答えが与えられるはずだ、と一人ひとりに与えられる答えを心を整えながら待つことができる。いつなのかは分からないけれども、必ず来てくださるから待つことができるのです。この待つという心が一人ひとりに備えられたいと願っています。
 クリスマスは神がこの世においてイエス・キリストという具体的な、わたしたちと変わらない人となってこの歴史に介入された出来事です。そのようにしてクリスマスの歴史の中にわたしたちもすでに巻き込まれてしまっているのです。このことをアドベントにおいて共々確認しておきたいと願っています。それ故、わたしたちは今年もまたクリスマス、主の降誕を待ち望む信仰において、向こう側からやってくるクリスマスの力である、一人ひとりに対する具体的な助けを祈り求めつつ、待ちながら歩んでいきたいと願っています。

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