« 2019年10月 | トップページ | 2019年12月 »

2019年11月

2019年11月17日 (日)

ヨハネの手紙一 1章1~4節 「永遠の生命-使徒信条講解24」

 「身体のよみがえり」という具体に続いて、永続的な意味合いをもつ「永遠の生命」についてハイデルベルク信仰問答58は次のように考えています。
 【問58 「永遠の命」という箇条は、 あなたにどのような慰めを与えますか。    わたしが今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように、この生涯の後には、目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受け、神を永遠にほめたたえるようになる、ということです。 】
 将来の「永遠の生命」という目標があるからこそ、「わたしが今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように」と生きられるのだということです。「天国」「神の国」「神の支配」いずれにせよ、彼岸の約束において現在が規定され、生き方が整えられていくとによって、今の生き方が決断され決定されていく、このような信仰理解がここにはあるのです。
 「良いサマリア人のたとえ」の箇所は、律法の専門家からの「隣人とは誰か」という問いに対し、当時のユダヤ社会にあって被差別者であったサマリア人が隣人として振る舞い生きたというたとえです(ルカによる福音書10章25節から)。【すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」】
 ここで、律法の専門家は彼岸でこの世での生き方に対する報酬としての永遠の命に至るためには何をしたらいいのかと問います。主イエスは、国境とか民族とかを超えた普遍的な人間関係が神への愛に支えられた隣人愛に生きること、隔てのない隣人になっていくことだと示しました。
 彼岸の力は、この世においてどのように生きていくのか、何を目指していくのか、どのような志に生きるのかを激しく問うものです。身近な人間関係から広い意味での政治的判断や行動にまで及ぶのです。「永遠の生命」の約束は、善行を積めば死んだら「天国」に行けますよ、などという了見の狭い事柄ではないからです。
 永遠の生命の約束における彼岸からの力は、交わりを作り出し育てていくのです。その根拠がここには示されているのです。ここから的を外さずに歩んでいくことへの導きの中で喜んで生きられるようにと願いつつ、隣人になる道を模索しながら歩み、目標に希望を抱きながら、旅人としてこの世において責任的に歩んでいけばいいのです。「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)から。

2019年11月10日 (日)

イザヤ11:6「明日を生きる神の子どもたち」

~子ども祝福礼拝として~
 イザヤが活動したのは、主イエスの時代よりも700年以上前のことです。当時は、ユダヤ人の国は、北の王国のイスラエルと南の王国のユダという二つになっていました。イザヤは南王国のユダで活動していました。
 イザヤは、その時の王が神から見たら間違っていることをしていると告げました。そして、希望は、子どもに託されているというのでした。それが今日の聖書です。獰猛な狼と小羊、豹と子山羊が、そして子牛と子ライオンたちが仲良く暮らせる世界を夢見ていて、「小さい子供がそれらを導く」というのです。ここにあるのは「平和」のイメージです。「平和」のイメージは「神は我々と共におられる」(イザヤ書を11章まで読んでいく中で捉えられます)ことだと言えそうです。
 今日の聖書の言葉には、戦争に加わってはいけないというイザヤの心が現れています。イザヤが仕えていた南王国ユダの王のアハズは、ダマスクスの王と北の王国イスラエルの王からアッシリアに対して一緒に戦争しようと誘われたのですが断ります。そうしたら、それらの国から攻撃されてしまったのです。そこで、南王国ユダのアハズ王は、アッシリアに、これらの国が、あなたの国に対して戦争を仕掛けてきますよと教えて、アッシリアに助けてもらったのです。しかし、イザヤは、一緒に戦争に参加することも、戦争から助かるために大きな国に助けを求めることも間違っていて、いずれも大きな戦争になってたくさんの人が死んでしまうし、傷ついてしまうからやめなさいと言ったのです。このような事情の中で、イザヤは夢見る力によって子どもに「平和」への希望をつなごうとしたのです。
 おとなたちが子どもの言葉に耳を傾け、子どもたちが夢見る平和への道をおとなたちに伝えていくことができれば、世界は変わっていくと信じることができます。そのような思いへと招かれていくことが大切だと思うのです。神が、主イエスとして一緒にいてくれる感じ・その心は、イザヤ書の語る「弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。」ところにあります。この生き方を主イエスは、その生き方を通して教えてくださいました。
 マタイによる福音書5章9節には、次のような言葉があります。「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」と。イザヤが預言し、主イエスとして現れた神の思いは、ここにあります。少しでも「平和」への思いを寄せていくところにはすでに、子どももおとなも一緒に「明日を生きる神の子どもたち」として招かれてしまっているのです。この主イエスの願いを受け止めながら、子どもたちの祝福を願う教会として歩んでいきましょう。(加納眞士 作『もしも8歳のこどもが大統領に選ばれたら』を参考に)

« 2019年10月 | トップページ | 2019年12月 »

無料ブログはココログ