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2019年10月15日 (火)

マルコによる福音書 2章1~12節 「罪の赦し-使徒信条講解22」

 罪の認識に赦しは先行することを、前提として捉えておきましょう。罪とは、的を外している状態のことです。それはイエス・キリストの願い・思い・意志・目標などから照らされて明らかにされます。そして、日ごとに赦しに与るキリスト者は、罪の全貌を捉えることのできない「赦された罪人」としての限界をもつのです。罪の認識は人間の最高の知恵によってさえ至ることのできないものです。せいぜい欠片のようなものを知ることができるにすぎないからです。それほど罪の根は深すぎるのです。
 光としてのイエス・キリストの道は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16)という出来事を指します。友となり仲間となることは、利害関係や取引とは無関係のことです。ただただ、あなたの存在を尊くてかけ害のないものとして認め合うことです。
 このあり方を身体が麻痺していた人を思う四人の友人たちに認めたのでした。「イエスはその人たちの信仰を見て」(2:5)とあるとおりに‥。ここでの「信仰」とは、罪の赦しを宣言するイエス・キリストに共鳴する人間のあるべき方向性と読むことができるのではないでしょうか。
 イエス・キリストの罪の赦しが向かう先は、現代においては人と人の関係を分断し、疎外する構造悪ではないでしょうか。憎悪や差別を克服することが人間にとって大きな課題であり、そしてそれはイエス・キリストの赦しの先行なしには為し得ないのです。
 罪の赦しとは、イエス・キリストの働きかけとしての、友となること・仲間となることの徹底です。無条件に全面的に底が抜けるほどの愛によるのです。この愛による罪の赦しこそが、構造悪を解体する力なのです。
 わたしたちは日ごとに、絶えることにない罪の赦しに与っているのです。それゆえに、今度は他者に向かって和解の道を模索していくように歩み出してくことが求められているのです。この場に立てば、わたしたちの前に広がる暗黒の世界観、その姿も位相が異なって映し出されていくのではないでしょうか。この時にすでに聖霊は働きかけておられるからです。

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