コリントの信徒への手紙一 15章20~28節 「身体のよみがえり-使徒信条講解23」
キリスト教会では死のことを「眠り」と理解することがあります。「眠りについた人たち」と20節にはあります。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(15:20)と。この世における死というのは眠りなのだ、来るべき最終的な死というものはあるけれども、いのちへと招かれる約束があるのだというのです。そこで、旧約の言葉を踏まえながら54節後半から述べていくのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」と。
ハイデルベルク信仰問答45の答の3項「わたしたちにとって、 キリストのよみがえりは わたしたちの祝福に満ちたよみがえりの 確かな保証である、ということ。 」という保証が「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(15:20)にあるのです。このゆえに、わたしたちも来るべき日には、この身体がキリストと同じようにと変えられていくという約束があり、完全にされていく。全く新しいわたしというものが、この身体ごと復活していくのだ、ということです。そのようにして、わたしたちは変えられていく約束に生きていくようにとの促しなのです。
わたしたちはこの世において様々な苦難があり、また試みがあり、悩みがあり、先行き不安なところもあるでしょう。しかし、パウロ的な信仰理解によれば大いに悩んでいいのです。復活の約束があるからこそ、悩むことも悲しむことも喜ぶことも、共に泣くことも笑うこともできる、そういう人と人とのつながりの中で歩んでいくことができるのです。このような方向を求め続けていくことができるという約束の中で歩んでいけばいいのです。
かつてのキリストの復活とやがて来るべき来臨のイエス、この「間」を生きているわたしたちは、どんな厳しい状況であったとしても守られている、という約束があるのです。この約束をもってわたしたちは、その担保されたいのちにあって救われているのです。「キリスト者が救われている」というのは、イエス・キリストを信じているから天国に入るキップをいただいてしまっている、ということではありません。イエス・キリストの招きの約束に、わたしたちの救いの現在があるのです。このことをパウロは証言しています。やがて来るべき身体のよみがえりに与る約束に生かされている教会が、ここににあるのです。
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