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2019年10月13日 (日)

詩編 139:1~18 「小さないのち」 (農村伝道神学校4年 上杉理絵)

 神学校日に招いていただき、ありがとうございます。昨年度の農伝の卒業生の卒論のひとつに、「赤ちゃんを(流産、死産、新生児死で)亡くした女性を中心とした牧会の現状と可能性~~喪の作業の歩みからの一考察」というものがありました。社会の中、教会の中では、生まれることなく消えていった「いのち」、生まれてすぐに亡くなった「いのち」について、なかなか話されることが少ないと思います。なぜ、語ることができないのか。
 おなかの赤ちゃんを失うということ、生まれて間もないいのちを失うことは、女性にとって、精神的・身体的な危機にみまわれることになります。もちろん、父親である男性も悲しみ痛むかもしれませんが、それは女性の比ではないように思います。キリスト者である時には、信仰的な危機にみまわれることもあるかもしれません。
 彼女の卒論の中では、「喪の作業」について心理的・神学的に深く考察されていています。その「喪の作業」によって、一歩踏み出していかれるのではないかと、「小さないのち記念式」という提案をしています。そのような時間が、教会のなかに位置付けられたら、キリスト者に関わらず、慰めを得る人が多くいるのではないかと思います。
 139編13節「あなたは、わたしの内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。」16節「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。/わたしの日々は あなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。」
 ここに、「あなたの書」とあります。「いのちの書」という、神に属する者の名やそのすべての行いのすべてを記録した書がある、と聖書の中で言われていますが、この「いのちの書」にわたしたちひとりひとりが数えられている。ここでの「いのち」は、生命そのもの、肉体的な生体としての命ではなく、死ぬことがない、いのち。永遠のいのち、神と共にあるいのち。その「いのち」は、神さまに知られている。胎の中にいる時から、一日も作られていないうちから。神さまのまなざしの中では、生きているものも、死んだものも、生まれて来なかったものも、みな「いのち」として、今も、神さまの内にある。
 こんなに力強いメッセージが聖書の中にある。このメッセージは、大切な人を失って悲しみの中にある方にとって、本当に大きな慰めになるのではないかと思います。教会を通して、小さないのちを失い、悲しみ、痛みを持った人たちが繋がり、わかち合い、慰めを得られることを願います。

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