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2019年10月

2019年10月27日 (日)

ルカによる福音書 17章21節 「イエスさまのまごころにいきる」 

キリスト教教育週間~子どもとおとなの合同礼拝~(タイの児童養護施設バーンジンジャイを覚えて)
 【「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」】このようにイエスさまは言いました。
 「神の国」というのは、イエスさまの願っている世界のことです。その「神の国」を、イエスさまは「見える形では来ない」と言ってから、さらに「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。」と続けます。神さまの思いに満ちた世界を見ようとしてキョロキョロするんじゃないよ、と言っているようです。「神の国」である、イエスさまの思いとは、どこか遠いところ、天国ではなくて、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」というのです。「間」とは、難しい言葉で「関係」のことを言います。「あなたとわたしの間」のことです。目には見えない「つながり」のことです。お互いにより豊かないのちを尊びあうように、すぐそばにある「関係」を大切にしていきましょうというのです。あなたとわたしの「間」を嬉しくて充実したあり方に変えていくところに「神の国」としてのイエスさまの思いが満ち溢れているというのです。ピアンタさんがバーンジンジャイを開き、つらい思いをしてきた子どもたちがバーンジンジャイで幸せに生活ができている、これも一つの「神の国」の形です。
 わたしたちは、このタイの児童養護施設「バーンジンジャイ」で暮らし、学んでいる子どもたちのために祈りたいと思います。家族と暮らせない子どもには、親に代わって大切に育ててくれるおとなが傍にいることが必要なのです。子どもが子どもとしていのちの安全が保障されながらワクワクドキドキして毎日が嬉しく生きられることが重要なのです。悲しいことや辛いことももちろんあるでしょう。でも、「大切にされている」ことを身体と心で知っていれば、困難は乗り越えていけます。バーンジンジャイはその働きをしているのです。
 そして、同時に今のわたしたちのこの街や、自分たちの暮らしの中でも、イエスさまの思いである「神の国」の様々なあり方を、「ここにある」「あそこにある」ではなくて、あなたとわたしたちそれぞれの「間」にあることをキチンと考えて祈りながら歩む神の子どもたちとされていきたい、と願います。

2019年10月20日 (日)

コリントの信徒への手紙一 15章20~28節 「身体のよみがえり-使徒信条講解23」

 キリスト教会では死のことを「眠り」と理解することがあります。「眠りについた人たち」と20節にはあります。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(15:20)と。この世における死というのは眠りなのだ、来るべき最終的な死というものはあるけれども、いのちへと招かれる約束があるのだというのです。そこで、旧約の言葉を踏まえながら54節後半から述べていくのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」と。
 ハイデルベルク信仰問答45の答の3項「わたしたちにとって、 キリストのよみがえりは わたしたちの祝福に満ちたよみがえりの 確かな保証である、ということ。 」という保証が「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(15:20)にあるのです。このゆえに、わたしたちも来るべき日には、この身体がキリストと同じようにと変えられていくという約束があり、完全にされていく。全く新しいわたしというものが、この身体ごと復活していくのだ、ということです。そのようにして、わたしたちは変えられていく約束に生きていくようにとの促しなのです。
 わたしたちはこの世において様々な苦難があり、また試みがあり、悩みがあり、先行き不安なところもあるでしょう。しかし、パウロ的な信仰理解によれば大いに悩んでいいのです。復活の約束があるからこそ、悩むことも悲しむことも喜ぶことも、共に泣くことも笑うこともできる、そういう人と人とのつながりの中で歩んでいくことができるのです。このような方向を求め続けていくことができるという約束の中で歩んでいけばいいのです。
 かつてのキリストの復活とやがて来るべき来臨のイエス、この「間」を生きているわたしたちは、どんな厳しい状況であったとしても守られている、という約束があるのです。この約束をもってわたしたちは、その担保されたいのちにあって救われているのです。「キリスト者が救われている」というのは、イエス・キリストを信じているから天国に入るキップをいただいてしまっている、ということではありません。イエス・キリストの招きの約束に、わたしたちの救いの現在があるのです。このことをパウロは証言しています。やがて来るべき身体のよみがえりに与る約束に生かされている教会が、ここににあるのです。

2019年10月15日 (火)

マルコによる福音書 2章1~12節 「罪の赦し-使徒信条講解22」

 罪の認識に赦しは先行することを、前提として捉えておきましょう。罪とは、的を外している状態のことです。それはイエス・キリストの願い・思い・意志・目標などから照らされて明らかにされます。そして、日ごとに赦しに与るキリスト者は、罪の全貌を捉えることのできない「赦された罪人」としての限界をもつのです。罪の認識は人間の最高の知恵によってさえ至ることのできないものです。せいぜい欠片のようなものを知ることができるにすぎないからです。それほど罪の根は深すぎるのです。
 光としてのイエス・キリストの道は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16)という出来事を指します。友となり仲間となることは、利害関係や取引とは無関係のことです。ただただ、あなたの存在を尊くてかけ害のないものとして認め合うことです。
 このあり方を身体が麻痺していた人を思う四人の友人たちに認めたのでした。「イエスはその人たちの信仰を見て」(2:5)とあるとおりに‥。ここでの「信仰」とは、罪の赦しを宣言するイエス・キリストに共鳴する人間のあるべき方向性と読むことができるのではないでしょうか。
 イエス・キリストの罪の赦しが向かう先は、現代においては人と人の関係を分断し、疎外する構造悪ではないでしょうか。憎悪や差別を克服することが人間にとって大きな課題であり、そしてそれはイエス・キリストの赦しの先行なしには為し得ないのです。
 罪の赦しとは、イエス・キリストの働きかけとしての、友となること・仲間となることの徹底です。無条件に全面的に底が抜けるほどの愛によるのです。この愛による罪の赦しこそが、構造悪を解体する力なのです。
 わたしたちは日ごとに、絶えることにない罪の赦しに与っているのです。それゆえに、今度は他者に向かって和解の道を模索していくように歩み出してくことが求められているのです。この場に立てば、わたしたちの前に広がる暗黒の世界観、その姿も位相が異なって映し出されていくのではないでしょうか。この時にすでに聖霊は働きかけておられるからです。

2019年10月13日 (日)

詩編 139:1~18 「小さないのち」 (農村伝道神学校4年 上杉理絵)

 神学校日に招いていただき、ありがとうございます。昨年度の農伝の卒業生の卒論のひとつに、「赤ちゃんを(流産、死産、新生児死で)亡くした女性を中心とした牧会の現状と可能性~~喪の作業の歩みからの一考察」というものがありました。社会の中、教会の中では、生まれることなく消えていった「いのち」、生まれてすぐに亡くなった「いのち」について、なかなか話されることが少ないと思います。なぜ、語ることができないのか。
 おなかの赤ちゃんを失うということ、生まれて間もないいのちを失うことは、女性にとって、精神的・身体的な危機にみまわれることになります。もちろん、父親である男性も悲しみ痛むかもしれませんが、それは女性の比ではないように思います。キリスト者である時には、信仰的な危機にみまわれることもあるかもしれません。
 彼女の卒論の中では、「喪の作業」について心理的・神学的に深く考察されていています。その「喪の作業」によって、一歩踏み出していかれるのではないかと、「小さないのち記念式」という提案をしています。そのような時間が、教会のなかに位置付けられたら、キリスト者に関わらず、慰めを得る人が多くいるのではないかと思います。
 139編13節「あなたは、わたしの内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。」16節「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。/わたしの日々は あなたの書にすべて記されている。まだその一日も造られないうちから。」
 ここに、「あなたの書」とあります。「いのちの書」という、神に属する者の名やそのすべての行いのすべてを記録した書がある、と聖書の中で言われていますが、この「いのちの書」にわたしたちひとりひとりが数えられている。ここでの「いのち」は、生命そのもの、肉体的な生体としての命ではなく、死ぬことがない、いのち。永遠のいのち、神と共にあるいのち。その「いのち」は、神さまに知られている。胎の中にいる時から、一日も作られていないうちから。神さまのまなざしの中では、生きているものも、死んだものも、生まれて来なかったものも、みな「いのち」として、今も、神さまの内にある。
 こんなに力強いメッセージが聖書の中にある。このメッセージは、大切な人を失って悲しみの中にある方にとって、本当に大きな慰めになるのではないかと思います。教会を通して、小さないのちを失い、悲しみ、痛みを持った人たちが繋がり、わかち合い、慰めを得られることを願います。

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