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2019年9月 8日 (日)

マルコによる福音書 4章35~41節 「聖なる公同の教会を信ず‐使徒信条講解20」

 【そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。(4:36‐37)】教会はしばしば「舟」にたとえられます。いわば、教会というものは歩みを始めようとするときに、むしろ歩みを始めている時すでに嵐に見舞われる存在なのだということです。
 この世は、現代日本に限らず古代から格差社会であることには変わりがない。富んでいる者はより多くの富を得、弱りを覚えている者はより貶められていく、そのようにして格差がどんどん大きくなっていき、それが「平和」と呼ばれるようになるのです。偽りの「平和」。武力によって平定されることによる見せかけの平和。戦争をし続けることをもって「平和」と呼ぶ独善。このような価値観の世界としての嵐の中にあって教会はどのような立場を取るのかという問いがここにはあるのです。
 その嵐の中で【しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。(4:38)】のです。嵐の中で弟子たちは、全く無力感に襲われているわけです。イエスが起きていなければ、何もできないような非常にもろく弱々しい存在として弟子たちはそこにいます。そのようなわけで、【弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。(4:39)】イエスがたとえ眠っていたとしても一緒にいてくださるのだ、ということに信頼できない弱さがここにはある。
 わたしたちは社会の不安定の嵐の中で、このまま放っておいたら生命体が滅びてしまうのではないかという不安、怖れ、狼狽に晒されている。しかし、ここにこそ主イエスが傍におられるのだ、それを忘れてはいけなのだと、今日の聖書は奇跡物語として、たとえとして語っているのです。
 わたしたちの心の中に起こってくるさまざまな嵐に向かってもイエス・キリストは、繰り返し「黙れ。静まれ」という言葉を眠りながらも語っているのではないでしょうか。今日のこの聖書を読むたびに、一人ひとりの不安や怖れという現代の嵐の情況の中でイエス・キリストが一緒にいてくださることを知らされるのです。その方が招いてくださっている教会なのだから、この意味においてのみ「聖なる公同の教会」は生成されていくのです。現段階においては人間の価値観からすれば、あちこちがほころびて破れている惨めでみっともない姿かもしれないけれども、それがそのまま丸ごと良しとして受け止められていることによって、より相応しく整えていこうとする、映し出していこうとする信仰の在りようへと整えられていくに違いないのです。

 

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