詩編71:1-24「恵みの御業」~「高齢者の日礼拝」~
「あなたはわたしの避けどころ、わたしの砦」(7)と、神に存在の根拠一切があるのだ、それゆえに神に向かって訴え、祈り、賛美するほかない、わたしたちはそういう存在なのだということです。わたしたちが生かされてあるこの生命は、母の胎にいるときから選ばれ、生まれ出で、そして歳を重ね、やがて来るべき神の国に向かって帰っていく。
一旦、神から鼻に息が入ったら吐き出さなくてはなりません。それが呼吸です。同じように、神から貸し与えられた生命に息が吹き込まれたら、吐き出し、すなわち賛美・祈り・告白などの応答をするものなのです。息を溜め込んでおくことはできないからです。人間の生きる目的は、賛美・祈り・告白といった応答で神に感謝しつつ生き、証ししていくところにあります。
そのような中で、この詩人は多分困難に陥っているのでしょう。神に対して訴えかけています。「老いの日にも見放さず/わたしに力が尽きても捨て去らないでください。」(9節)「わたしが老いて白髪になっても/神よ、どうか捨て去らないでください。」(18節)。このように祈るのです。神は、そのような訴えを待っておられる。わたしたちはこの世にある限り、色々な困難な事柄が起こってくる。歳を重ねるごとに色々なことが起こってくる。しかし、聴いてくださる方がいる。だから、18節の後半から19節では、「御腕の業を、力強い御業を/来るべき世代に語り伝えさせてください。神よ、恵みの御業は高い天に広がっています。あなたはすぐれた御業を行われました。神よ、誰があなたに並びえましょう。」と、喜びにあふれて賛美します。さらにそれは信頼へと広がり、絶えず新しく生き直し、歩みを改めることができることが20節から21節で語られます。「あなたは多くの災いと苦しみを/わたしに思い知らせられましたが/再び命を得させてくださるでしょう。地の深い淵から/再び引き上げてくださるでしょう。ひるがえって、わたしを力づけ/すぐれて大いなるものとしてくださるでしょう。」
災いと苦しみの先に、神の与えてくださる瑞々しい生命がある。何度でも神は引き上げてくださる。このことを魂に刻むために、わたしたちは毎年誕生日を祝うのかもしれません。だから、「誕生日おめでとう」という言葉は、神が交換できない唯一無二の存在として一人ひとりを招き、その生命を貸し出してくださっていること、またわたしたちは何度でも生き直しが赦されていることの約束でもあるのではないでしょうか大切にした言葉です。自分自身に向けても。
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