ヨハネの手紙一 1章1~4節 「聖徒の交わり‐使徒信条講解21」
三位一体における聖霊の働きを信じることによって「聖徒の交わり」が起こされます。「聖徒の交わり」とは、キリスト教徒の関係の結ばれ方がイエス・キリストに倣うようにして関係が整えられているということです。
まず第一に踏まえておかなければならないのは、あくまで「聖なる者」はイエス・キリストだけであるということです。この点によってのみ、わたしたちが新たな歩みを始めていくことができるからです。
「使徒信条」は、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、」という歩みの中で、神がイエス・キリストにおいてどのように寄り添おうとしてくださったのかを示すのです。人間に対する「あなたの生命は何ものにも代え難い尊いものだ」と大切にしたい気持ち・願いによって神は人となり、より弱っている者、悩んでいる者、病に侵されている者などに徹底して寄り添い続けてくださったということです。生命が全面的に、無条件に肯定されているところにこそ「聖なる」あり方が示されているのです。だから、わたしたちはイエス・キリストの名前によって、どんなことだって祈ることができるのです。そういう一人ひとりの集まりが「聖徒の交わり」です。教会の人々との関係のありようとして整えられていくということです。教会は、イエス・キリストのかけがえのない友情のような「神の愛」によって招かれている、という交わりです。
教会も人間の集まりですから意見の違いや対立は当然あります。その中で言葉を通じさせていこうとするときには、わたしたちは、ただ一人「聖なる者」であるイエス・キリストに与ることによって、自らを「聖なる者たち」として映し出し、応答する他ありません。そのようにイエス・キリストの信仰に基づいて整えられていけばいいのです。
ハイデルベルク信仰問答から見てみましょう。
【問55:「聖徒の交わり」について、あなたは何を理解していますか。 答:第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、 主キリストとこの方のあらゆる富と賜物に あずかっている、ということ。 第二に、各自は自分の賜物を、 他の部分の益と救いのために、 自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない、ということです。】
ここにある「あずかっている、ということ」から群れにおける他者に向かって「自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない、ということ」という道筋において「聖徒の交わり」は位置付けられるのです。
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