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2019年9月

2019年9月30日 (月)

ヨハネの手紙一 1章1~4節 「聖徒の交わり‐使徒信条講解21」

 三位一体における聖霊の働きを信じることによって「聖徒の交わり」が起こされます。「聖徒の交わり」とは、キリスト教徒の関係の結ばれ方がイエス・キリストに倣うようにして関係が整えられているということです。
 まず第一に踏まえておかなければならないのは、あくまで「聖なる者」はイエス・キリストだけであるということです。この点によってのみ、わたしたちが新たな歩みを始めていくことができるからです。
 「使徒信条」は、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、」という歩みの中で、神がイエス・キリストにおいてどのように寄り添おうとしてくださったのかを示すのです。人間に対する「あなたの生命は何ものにも代え難い尊いものだ」と大切にしたい気持ち・願いによって神は人となり、より弱っている者、悩んでいる者、病に侵されている者などに徹底して寄り添い続けてくださったということです。生命が全面的に、無条件に肯定されているところにこそ「聖なる」あり方が示されているのです。だから、わたしたちはイエス・キリストの名前によって、どんなことだって祈ることができるのです。そういう一人ひとりの集まりが「聖徒の交わり」です。教会の人々との関係のありようとして整えられていくということです。教会は、イエス・キリストのかけがえのない友情のような「神の愛」によって招かれている、という交わりです。
 教会も人間の集まりですから意見の違いや対立は当然あります。その中で言葉を通じさせていこうとするときには、わたしたちは、ただ一人「聖なる者」であるイエス・キリストに与ることによって、自らを「聖なる者たち」として映し出し、応答する他ありません。そのようにイエス・キリストの信仰に基づいて整えられていけばいいのです。
 ハイデルベルク信仰問答から見てみましょう。
55:「聖徒の交わり」について、あなたは何を理解していますか。  :第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、 主キリストとこの方のあらゆる富と賜物に あずかっている、ということ。 第二に、各自は自分の賜物を、 他の部分の益と救いのために、 自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない、ということです。】
 ここにある「あずかっている、ということ」から群れにおける他者に向かって「自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない、ということ」という道筋において「聖徒の交わり」は位置付けられるのです。

2019年9月29日 (日)

マルコによる福音書 2章13~17節 「罪人は一体誰なのか?」 井谷淳 伝道師

「マルコ福音書 罪人を招く為にこの宴を催したのだ。」
 本日の聖書箇所におけるイエスのテーゼは二つに大別されます。一つは当時の「ユダヤ社会の抱える構造的暴力の告発」という「社会学的側面」であり、もう一つは「人間が人間を罪人として規定し断罪してゆく欺瞞性」に関する「信仰的、神学的告発」という側面であります。当時のユダヤ社会はユダヤ教神権政治体制を中核とした中央集権国家体制の中でピラミッド型のヒエラルキーが細分化し、且つローマ帝国政治支配の憂き目に会い、ヒエラルキーのボトムに居る人々の肩には二重支配による重税等の軋轢が重くのしかかっていました。そしてユダヤ当局のとっていた政策は(古今東西例外なく全ての中央集権国家でも同様の手法ですが)そのヒエラルキーの底辺の人々を更に階層的に細分化し被抑圧的職業属性を持つ人々が互いに「近親憎悪」「同属嫌悪」的な感情を相互に植え付けてゆく「分断政策」を施行していました。被抑圧集団同士の連帯を阻むためであります。本日の文節のキーワードである「罪人」は、このように普段は国家政策により分断されがちな「罪人」同士がイエス伝道の途上の場面での「集会」兼「愛餐会」のような場面によりつどっていました。「徴税人その他罪人の者達」という漠然とした表記がなされていますが、「罪人の内実~その社会的属性」は「羊飼い」、生き物の「生成与奪」に纏わる「漁師」「日雇い労働」に従事する異邦人、寄留者等の「外国人」、様々な事情により独り身に成らざるを得なかった「寡婦」と呼ばれる女性の方々、前述したような「姦淫の罪」に定められてしまった女性。そして「障碍者」であります。このような方々は10分の一税の不履行、安息日遵守の不履行その他当時の定められた「律法規定」から外れてしまう事情をその「生活状況の背景」に抱えていた人達であります。しかしこのように人間を「罪」に定めてしまう「律法」を定めた側こそが、真の『罪人』であるとイエスは説いているのです。文節中「そこへファリサイ派の人が現れ」と表記されています。私はイエス自らがこのような『体制側』の人間を意図的に呼び寄せたという『伏線』があるのではないかと感じます。イエスは不遇な状況性に置かれた人達を「罪人」としてプロット化し、「自己の優位性」を確保しようと画策する人間こそが、真の『罪人』であるとファリサイ派の人々に警告しているのです。「私は罪人を招く為にこの宴を催しているのだ。」このアイロニーに満ちたイエスの言葉に果たしてファリサイ派の人々は気付きを覚えたのでしょうか。イエス催した宴はこのような「人間を罪」に定めてきた人々の「信仰的欺瞞」に気付きを与える為の「和解」の為の宴であったのです。プロット化された社会の階層的ボーダーラインを越え人々が食事を共にする姿は豊かな人間性の回復の場所でありました。或いはこの姿が教会の原点かもしれません。

2019年9月15日 (日)

詩編71:1-24「恵みの御業」~「高齢者の日礼拝」~

 「あなたはわたしの避けどころ、わたしの砦」(7)と、神に存在の根拠一切があるのだ、それゆえに神に向かって訴え、祈り、賛美するほかない、わたしたちはそういう存在なのだということです。わたしたちが生かされてあるこの生命は、母の胎にいるときから選ばれ、生まれ出で、そして歳を重ね、やがて来るべき神の国に向かって帰っていく。
 一旦、神から鼻に息が入ったら吐き出さなくてはなりません。それが呼吸です。同じように、神から貸し与えられた生命に息が吹き込まれたら、吐き出し、すなわち賛美・祈り・告白などの応答をするものなのです。息を溜め込んでおくことはできないからです。人間の生きる目的は、賛美・祈り・告白といった応答で神に感謝しつつ生き、証ししていくところにあります。
 そのような中で、この詩人は多分困難に陥っているのでしょう。神に対して訴えかけています。「老いの日にも見放さず/わたしに力が尽きても捨て去らないでください。」(9節)「わたしが老いて白髪になっても/神よ、どうか捨て去らないでください。」(18節)。このように祈るのです。神は、そのような訴えを待っておられる。わたしたちはこの世にある限り、色々な困難な事柄が起こってくる。歳を重ねるごとに色々なことが起こってくる。しかし、聴いてくださる方がいる。だから、18節の後半から19節では、「御腕の業を、力強い御業を/来るべき世代に語り伝えさせてください。神よ、恵みの御業は高い天に広がっています。あなたはすぐれた御業を行われました。神よ、誰があなたに並びえましょう。」と、喜びにあふれて賛美します。さらにそれは信頼へと広がり、絶えず新しく生き直し、歩みを改めることができることが20節から21節で語られます。「あなたは多くの災いと苦しみを/わたしに思い知らせられましたが/再び命を得させてくださるでしょう。地の深い淵から/再び引き上げてくださるでしょう。ひるがえって、わたしを力づけ/すぐれて大いなるものとしてくださるでしょう。」
 災いと苦しみの先に、神の与えてくださる瑞々しい生命がある。何度でも神は引き上げてくださる。このことを魂に刻むために、わたしたちは毎年誕生日を祝うのかもしれません。だから、「誕生日おめでとう」という言葉は、神が交換できない唯一無二の存在として一人ひとりを招き、その生命を貸し出してくださっていること、またわたしたちは何度でも生き直しが赦されていることの約束でもあるのではないでしょうか大切にした言葉です。自分自身に向けても。

2019年9月 8日 (日)

マルコによる福音書 4章35~41節 「聖なる公同の教会を信ず‐使徒信条講解20」

 【そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。(4:36‐37)】教会はしばしば「舟」にたとえられます。いわば、教会というものは歩みを始めようとするときに、むしろ歩みを始めている時すでに嵐に見舞われる存在なのだということです。
 この世は、現代日本に限らず古代から格差社会であることには変わりがない。富んでいる者はより多くの富を得、弱りを覚えている者はより貶められていく、そのようにして格差がどんどん大きくなっていき、それが「平和」と呼ばれるようになるのです。偽りの「平和」。武力によって平定されることによる見せかけの平和。戦争をし続けることをもって「平和」と呼ぶ独善。このような価値観の世界としての嵐の中にあって教会はどのような立場を取るのかという問いがここにはあるのです。
 その嵐の中で【しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。(4:38)】のです。嵐の中で弟子たちは、全く無力感に襲われているわけです。イエスが起きていなければ、何もできないような非常にもろく弱々しい存在として弟子たちはそこにいます。そのようなわけで、【弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。(4:39)】イエスがたとえ眠っていたとしても一緒にいてくださるのだ、ということに信頼できない弱さがここにはある。
 わたしたちは社会の不安定の嵐の中で、このまま放っておいたら生命体が滅びてしまうのではないかという不安、怖れ、狼狽に晒されている。しかし、ここにこそ主イエスが傍におられるのだ、それを忘れてはいけなのだと、今日の聖書は奇跡物語として、たとえとして語っているのです。
 わたしたちの心の中に起こってくるさまざまな嵐に向かってもイエス・キリストは、繰り返し「黙れ。静まれ」という言葉を眠りながらも語っているのではないでしょうか。今日のこの聖書を読むたびに、一人ひとりの不安や怖れという現代の嵐の情況の中でイエス・キリストが一緒にいてくださることを知らされるのです。その方が招いてくださっている教会なのだから、この意味においてのみ「聖なる公同の教会」は生成されていくのです。現段階においては人間の価値観からすれば、あちこちがほころびて破れている惨めでみっともない姿かもしれないけれども、それがそのまま丸ごと良しとして受け止められていることによって、より相応しく整えていこうとする、映し出していこうとする信仰の在りようへと整えられていくに違いないのです。

 

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