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2019年8月11日 (日)

 ヨハネによる福音書 3章16~18節 「かしこより来たりて生ける者と死ねる者を審きたまわん‐使徒信条講解18」

 ヨハネ福音書の冒頭(1:1-4)において語られる先在のキリストが言葉であり命が受肉したことが1章14節に語られます。この言が肉となった主イエスについて、使徒信条では現在、過去、将来が順をおって語られています。まず、過去の部分としては「主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり」です。現在としては「全能の父なる神の右に座したまえり」であり、将来については今日の「かしこよりきたりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」となります。
 ヨハネ福音書においては、これら過去、現在、将来を時間の流れや歴史的な変化にそって捉えるのではなくて、それらが集約された<今>のこととしてヨハネの教会を支えているのだと理解しています。この感覚は現代人には理解しにくいことかもしれません。賛成できないかもしれませんが、ともかくヨハネ福音書の著者の頭の中には、このような図式があるようなのです。主イエスがその活動において示された神の国の実現という過去があり、今、主イエスは、神の右に座して働いておられ、そして「かしこより来たりて生ける者と死ねる者を審きたまわん」という将来がある。この過去、現在、将来という緊張関係が<今>を支えている、という信仰理解です。
 この、その時に向かっていかされている<今>を応答責任的に生きることが大切です。狂信に陥ることなく、落ち着いており、目を覚ましているようにして、生き抜くことへの招きが終末論の基本なのです。
 神の右にあってイエス・キリストという愛が「かしこ」から働き続けておられるので、わたしたちは神の愛に留まることができるのです。「かしこ」とは「神の右」「神の国」「神の支配」「神の意志」あるいは、いわゆる「天国」でしょう。イエス・キリストは常に変わりなく、過去、現在、将来にわたって差し向かい、招き、慰め、癒し、その人の<今>のいのちを支え、守り導く決意に満ち満ちた方なのだということです。「生ける者と死ねる者とを審きたまわん」とは、過去も現在も、将来に約束されたイエス・キリストのいのちの内に包まれているという宣言なのです。この意味で教会は、来るべき日に至るまで途上を旅する共同体としての使命に生きるのです。終末とは、教会が必要なくなる時です。神の支配、神の国への道標としての役割が終わるからです。来るべき日までは、道標としてあり続けること、それが教会です。
 わたしたちは、まず無条件にそれぞれのいのちが祝福されているのであり、それを根拠に生前の主イエスに倣い、この世の悪や矛盾に対して抗っていくことが求められているのです。使命に生きる教会は、ここにこうして具体的なキリストの体として主イエスを証ししていくのです。

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