<修養会のレジメから>
「聖書の中からの平和の捉え直し」まとめ
①旧約においても真・偽パウロの手紙においてもそうであったように、また、人類の歴史や現在の世界を見渡しても、人間の側の「平和」は、常に 限定的である、という限界を持つ。
②究極的な「平和」は神自身からもたらされる事態。そのために神は人を用いられる。
③マタイ5:9 「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」
*ここでの「平和」は名詞でなく、新約ではここにだけ使われている、動詞形です。例外的な使われ方なので断定することに対しては慎重であるべきですが、いわゆる「愛敵の教え」との共鳴によって方向付けが可能だと考えています。
④マタイ5:43-45 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」
*つまり、究極的な「平和」は神自身からもたらされる事態ですが、そのためには人を用いられると思うのです。
⑤本来敵でない者同士を「敵」として対置させようとする権力の意思、に対して抗う姿勢。
*たとえば、白土三平のマンガ『カムイ伝』がヒントになるかもしれません。江戸時代、綿花の栽培を厳しい身分制度を越えていく方向性を志した正助の姿です。(しかし、代官の策略により貶められ、物語においては、身分制度に抗う姿勢は躓いてしまいます。)
⑥現代において、主イエスの「平和」を求めていくことは、定義できない究極としての神の国(エデンの回復ないしは新しい天地の到来)を求め続けていくことに他ならない。
⑦「平和を実現する人々」であることを望みつつ、しかしその途上の者にしか成りえないことを自覚し、なお、限定された「平和」を積み上げていく作業を続けていくこと。⑧主イエスの守りの中で他者との関係を作り整えていくところは、どこにでも「平和」の種は備えられている。
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