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2019年8月

2019年8月25日 (日)

武部正美さんからのメッセージ

(1)人間の思い上がりを考える (短頭種)
 地球が誕生して46億年。その6億年後には生命が誕生し、さまざまな進化を経て、犬の先祖であるオオカミが誕生したのは約80万年前。猫の先祖であるリビアヤマネコの誕生は約13万年前と言われています。いっぽう我々人間であるホモ・サピエンス・サピエンスの誕生は約10万年前。つまり我々人間は彼らの後輩、単なる新参者に過ぎないのです。
 ところが、この新参者がオオカミとリビアヤマネコから犬と猫という動物をつくりだしてしまいました。最初のうちは、先祖であるオオカミやリビアヤマネコに姿恰好の似た犬や猫でしたから問題はなかったのですが、次第に図に乗ってきて、おかしな犬猫をつくり始めてしまったのです。その典型なのが犬ではブルドッグを始めとするパグ、ペキニーズ、ボストンテリア等の短頭種。猫ではエキゾチックを始めとしたペキニーズタイプのペルシャ猫やシャム猫、ヒマラヤン等が挙げられます。目的は分かりませんが、多分人間顔にしたかったのでしょう。本来の先祖たちと違って鼻がぺちゃんこですから、呼吸がし難くなります。その証拠にこうした犬や猫達は凄い鼾をかきます。空気の通りが悪くなるわけですから当然です。そのため特に犬は呼吸による体温調節ができなくなって熱中症に罹りやすくなります。猫は犬ほどではありませんが、それでも顔がぺちゃんこのために涙管が閉塞し涙が溢れ出て、いつも眼頭が汚らしくなります。また犬も猫も顔がぺちゃんこになったために、眼球が飛び出してきますから、傷つき易くなったり乾燥し易くなったりで角膜の病気が多くなります。彼らは息苦しい不快な生活を一生強いられているのです。
 最近イギリスではこうした動物を改良する機運が高まっているようですが、それよりもこうした犬や猫の繁殖をやめてつくらない、あるいは飼わないといった方向に進めるのが一番ではないでしょうか。
(2)人間の思い上がりを考える(可哀そうな種類)
 前号では、犬猫の短頭種が毎日不快な生活を送っている話しをしました。つまり、頭短種は呼吸がし難く、熱中症や眼の病気になりやすく、特に犬の場合には自然分娩が難しいという話しを------。今回は短頭種以外にも辛い生活を強いられている種類がいることをお話したいと思います。
 垂れ目で、顔の皺が多く耳の長いブラッド-ハウンドという犬種がいます。この種類は、「悲しげな風貌」を強調しようとする選択交配が行われてきたために、結膜炎の原因にもなる眼瞼外反症(あかんべーをしたような状態)が極めて頻繁に現れています。中国の犬であるチャウチャウは、あの菱形をしたつぶらな眼を強調せんがために、眼瞼が内側にめくれ込んでしまう所謂眼瞼内反症が多く認められます。また全身の被毛が殆どないメキシカン-ヘアレスや全身皺だらけといってもよいシャーペイなどは、当然気温の変動に対応できなかったり、皮膚病になりやすかったりといった犬種で、飼い主は必要以上に世話や配慮が要求されます。
 いっぽう猫は犬程人間の手は加えられていませんが、それでもスフィンクスといって全くの無毛の猫がいます。寒さや乾燥に弱く、気候の変動に対応できません。また耳翼が縮んだような形態の猫スコッティシュフォールドもいます。耳翼が縮んで寝たような状態ですから耳道が蒸れて外耳炎なりやすく、また耳道の治療も大変です。こうした生まれながらの身体的欠陥は、当然のこと自然が創造したものではなく、所詮人間の思い上がりによる勝手や面白半分が生み出した結果に過ぎません。このような種類を生み出した人間は勿論のこと、こうした種類の動物を飼いたいと考える飼い主側にも責任があるのではないでしょうか。そして、それ以上にこうした問題に対し声を大にして社会に訴えてこなかった我々獣医師にも重大な責任があると思います。

2019年8月18日 (日)

<修養会のレジメから>

「聖書の中からの平和の捉え直し」まとめ
①旧約においても真・偽パウロの手紙においてもそうであったように、また、人類の歴史や現在の世界を見渡しても、人間の側の「平和」は、常に 限定的である、という限界を持つ。

②究極的な「平和」は神自身からもたらされる事態。そのために神は人を用いられる。

③マタイ5:9 「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」

*ここでの「平和」は名詞でなく、新約ではここにだけ使われている、動詞形です。例外的な使われ方なので断定することに対しては慎重であるべきですが、いわゆる「愛敵の教え」との共鳴によって方向付けが可能だと考えています。

④マタイ5:43-45 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」

*つまり、究極的な「平和」は神自身からもたらされる事態ですが、そのためには人を用いられると思うのです。

⑤本来敵でない者同士を「敵」として対置させようとする権力の意思、に対して抗う姿勢。

*たとえば、白土三平のマンガ『カムイ伝』がヒントになるかもしれません。江戸時代、綿花の栽培を厳しい身分制度を越えていく方向性を志した正助の姿です。(しかし、代官の策略により貶められ、物語においては、身分制度に抗う姿勢は躓いてしまいます。)

⑥現代において、主イエスの「平和」を求めていくことは、定義できない究極としての神の国(エデンの回復ないしは新しい天地の到来)を求め続けていくことに他ならない。

⑦「平和を実現する人々」であることを望みつつ、しかしその途上の者にしか成りえないことを自覚し、なお、限定された「平和」を積み上げていく作業を続けていくこと。⑧主イエスの守りの中で他者との関係を作り整えていくところは、どこにでも「平和」の種は備えられている。

2019年8月11日 (日)

 ヨハネによる福音書 3章16~18節 「かしこより来たりて生ける者と死ねる者を審きたまわん‐使徒信条講解18」

 ヨハネ福音書の冒頭(1:1-4)において語られる先在のキリストが言葉であり命が受肉したことが1章14節に語られます。この言が肉となった主イエスについて、使徒信条では現在、過去、将来が順をおって語られています。まず、過去の部分としては「主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり」です。現在としては「全能の父なる神の右に座したまえり」であり、将来については今日の「かしこよりきたりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」となります。
 ヨハネ福音書においては、これら過去、現在、将来を時間の流れや歴史的な変化にそって捉えるのではなくて、それらが集約された<今>のこととしてヨハネの教会を支えているのだと理解しています。この感覚は現代人には理解しにくいことかもしれません。賛成できないかもしれませんが、ともかくヨハネ福音書の著者の頭の中には、このような図式があるようなのです。主イエスがその活動において示された神の国の実現という過去があり、今、主イエスは、神の右に座して働いておられ、そして「かしこより来たりて生ける者と死ねる者を審きたまわん」という将来がある。この過去、現在、将来という緊張関係が<今>を支えている、という信仰理解です。
 この、その時に向かっていかされている<今>を応答責任的に生きることが大切です。狂信に陥ることなく、落ち着いており、目を覚ましているようにして、生き抜くことへの招きが終末論の基本なのです。
 神の右にあってイエス・キリストという愛が「かしこ」から働き続けておられるので、わたしたちは神の愛に留まることができるのです。「かしこ」とは「神の右」「神の国」「神の支配」「神の意志」あるいは、いわゆる「天国」でしょう。イエス・キリストは常に変わりなく、過去、現在、将来にわたって差し向かい、招き、慰め、癒し、その人の<今>のいのちを支え、守り導く決意に満ち満ちた方なのだということです。「生ける者と死ねる者とを審きたまわん」とは、過去も現在も、将来に約束されたイエス・キリストのいのちの内に包まれているという宣言なのです。この意味で教会は、来るべき日に至るまで途上を旅する共同体としての使命に生きるのです。終末とは、教会が必要なくなる時です。神の支配、神の国への道標としての役割が終わるからです。来るべき日までは、道標としてあり続けること、それが教会です。
 わたしたちは、まず無条件にそれぞれのいのちが祝福されているのであり、それを根拠に生前の主イエスに倣い、この世の悪や矛盾に対して抗っていくことが求められているのです。使命に生きる教会は、ここにこうして具体的なキリストの体として主イエスを証ししていくのです。

2019年8月 4日 (日)

マタイによる福音書 18書15~20節 「教会の交わりのために」

 マタイによる福音書の大きな特徴は、イエス・キリストという神が、主イエスの教えにおいて、わたしたちと共にいてくださると証言しているということです。降誕物語では【「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。】(1:23)とあります。また、福音書の終わりには【あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。】(28:20)とあります。すなわち、降誕から復活、そして世の終わりまで主イエスは、「インマヌエル」として、いつも共にいてくださる存在なのだというのです。
 この、「インマヌエル」の事実に堅く立つことによって、教会の交わりは形作られ育てられていくという約束が20節に言い表されています。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」と。わたしとあなた、あるいはわたしたちという関係、その間には主イエス・キリストがいてくださるという事実に立つことによってのみ、わたしたちは具体的な主の体としての教会にいるのです。意見の対立や論争や諍いは確かにあるけれども、それは主イエスが間にいてくださることによって乗り越えられるという希望があるのです。完全な解決策が与えられるということではありません。対話が可能とされ、応答可能性としての責任に生きることが恵みとして与えられていることを意味します。
 大切なのは「聴く」ということです。相手の考えや立場、意見に対して賛成であれ反対であれ、まず自分の正義を主張することよりも「聴く」こと、理解するように努めることが大切です。伝道者はこの点、自戒を込めて言いますが、上から目線であり、傲慢であり、聞く耳を持たず、自分の正義を教えたがります。
 主イエスは、そのようなあり方をご存知だったからこそ、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」と語ったのではないでしょうか。わたしとあなた、わたしたちの間に主イエスがおられることが大前提なのだということを、です。わたしの背後に主イエスがおられると同時に、あの人の背後にも、この人の背後にも主イエスがおられることを忘れてしまったらいけないのです。換言すれば、インマヌエルの事実が、わたしたちを対話可能にするのです。
 来るべき日に至るまで、教会という交わりの形成と成長のために、いつも主イエス・キリストが共にいてくださる事実に堅く立ちつつ、歩む者とされることを願います。

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