コリントの信徒への手紙一 15章20~22節 「死人のうちより‐使徒信条講解15」
死の出来事の破壊力、その暴力性、無常さなどに対して、わたしたちは無力です。主イエスも例外ではありません。
【 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとしたしかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。】(マルコ15:33-37)
主イエスが絶叫しつつ死を迎えるとき、関係性の破壊への悲しみや悔いなど心の中に溢れる様々な思いがあったと考えられます。わたしたちと同様に、主イエスにあっても無情にも死は訪れたのです。
よみがえりの主イエスが、この絶望のうちに死んでいった主と同じ方であるということを忘れてはなりません。しかし「死人のうちより」よみがえってくださることにおいて勝利したのです。21節の「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」が示すのは、「初穂」である主イエスに招かれ、連れられていく道において、わたしたちは「死」の現実を平安のうちに受け入れていくことへと導かれていくに違いないということです。わたしたちは自らの死を前にしたとき、病気のゆえであればなおさら。死を恐れ、「なぜですか」と神に問うでしょう。しかし、よみがえりのキリストの力は、死に対して勝利しているがゆえに「死の意味を問わずに済む」、ただ受け容れることへと整えられているのでしょう。ここには死の恐怖や不安などから自由にされていく道が、この歴史において示されています。この態度はパウロのあり方からも支えることができます。今日の15章を読み進んで行くとぶつかる箇所です。すなわち、「死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(15:55)と。
わたしたちは誰一人の例外なく、この世における死を迎えます。しかし、主イエスが初穂として死人のうちからよみがえってくださっている事実を前提にすれば、死に対する恐怖や不安を抱えたままでさえ受け入れられているので大丈夫なのです。十字架上での主イエスの絶叫によって、わたしたちは支えられているのです。ですから来るべき日に至るまで、わたしたちは、主イエス・キリストの導きのもと応答可能性というこの世における責任の道を歩んでいけばいいのです。
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