ヨハネによる福音書 2章13~22節 「三日目に-使徒信条講解14」
神殿を壊してみろ、とはヨハネ福音書の神学とか考え方に従って解釈し直すと、「俺を殺してみろ、三日でよみがえってみせるぞ」という発想になろうかと思います。ただ単にこれはイエスの殉教物語のようなものではなくて、自分がどのような仕方で殺されようとも、そのままでは終わらないということです。「三日目に」「よみがえり=陰府から帰る」において、別の物語を一人ひとりに備えてあげようという意志があるということです。この「三日目に」という言葉は、そう遠くない将来、かなり近い将来、もうすぐ、という意味合いで使われています。ファンタジーの類型の一つ「往きて還りし物語」は、主人公が別世界に往き、何らかの課題解決をする過程で成長し、現実世界に戻ってくるというものです。イエスの「よみがえり」は、この「往きて還りし物語」と同質のもの、新しい事態への移行と読むことができます。イエスの物語の読み手(教会)は、イエスが経験した生涯、嘲弄の末十字架で殺され、確実に死に果て、「陰府にくだり」、しかし「三日目に」「よみがえり」という時に、自分の状況に対する希望を読み取ることができます。イエスの「往きて還りし物語」が、イエスのゆえに我が身にも起こりうるということ。そのように備えられている物語を一人ひとりが、そして教会という群れが生きるようにと促されているということです。
わたしたちはこの世に生まれ、育ち、今こうしてここにいます。この世に生きる限りにおいて、様々な悩みや苦しみ、大きな課題、解決困難な問題、そんなものを誰もが抱えています。わたしたちが夜一人になって今日一日どうであったか、また今までのことを振り返り、将来のことを考えるときに、やり残している問題に思い当たります。それに対しての答えが見つからない、そこで焦ったりすることもあります。
これらの現実に対して「三日目に」という事柄は、もしかしたら乱暴な響きをもつかもしれないけれども、様々な解決困難な問題を抱えたわたしたち一人ひとりに対して「大丈夫」と、「もうすぐ」「程なくして」その答えが来るに違いないという一つの励ましのようなものではないでしょうか。そのために、イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と胸を張って答えたのではないでしょうか。「もうすぐだ」「程なくして」何かしらが変わるのだと。聞きようによっては非常に無責任かもしれません。けれども、そこに何かしらの希望を抱いていてもいいじゃないか、もしそれが信じられなくてもイエスが語ってくださる「三日で建て直してみせる」との言葉のゆえに何かが起こるのだから。もうしばらくすれば、すぐ起こるのだから、を希望の言葉として受け止めることができないでしょうか。
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