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2019年7月

2019年7月14日 (日)

コリントの信徒への手紙一 15章20~22節 「死人のうちより‐使徒信条講解15」

 死の出来事の破壊力、その暴力性、無常さなどに対して、わたしたちは無力です。主イエスも例外ではありません。
【 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとしたしかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。】(マルコ15:33-37)
 主イエスが絶叫しつつ死を迎えるとき、関係性の破壊への悲しみや悔いなど心の中に溢れる様々な思いがあったと考えられます。わたしたちと同様に、主イエスにあっても無情にも死は訪れたのです。
 よみがえりの主イエスが、この絶望のうちに死んでいった主と同じ方であるということを忘れてはなりません。しかし「死人のうちより」よみがえってくださることにおいて勝利したのです。21節の「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」が示すのは、「初穂」である主イエスに招かれ、連れられていく道において、わたしたちは「死」の現実を平安のうちに受け入れていくことへと導かれていくに違いないということです。わたしたちは自らの死を前にしたとき、病気のゆえであればなおさら。死を恐れ、「なぜですか」と神に問うでしょう。しかし、よみがえりのキリストの力は、死に対して勝利しているがゆえに「死の意味を問わずに済む」、ただ受け容れることへと整えられているのでしょう。ここには死の恐怖や不安などから自由にされていく道が、この歴史において示されています。この態度はパウロのあり方からも支えることができます。今日の15章を読み進んで行くとぶつかる箇所です。すなわち、「死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(15:55)と。
 わたしたちは誰一人の例外なく、この世における死を迎えます。しかし、主イエスが初穂として死人のうちからよみがえってくださっている事実を前提にすれば、死に対する恐怖や不安を抱えたままでさえ受け入れられているので大丈夫なのです。十字架上での主イエスの絶叫によって、わたしたちは支えられているのです。ですから来るべき日に至るまで、わたしたちは、主イエス・キリストの導きのもと応答可能性というこの世における責任の道を歩んでいけばいいのです。

2019年7月 7日 (日)

ヨハネによる福音書 2章13~22節 「三日目に-使徒信条講解14」

 神殿を壊してみろ、とはヨハネ福音書の神学とか考え方に従って解釈し直すと、「俺を殺してみろ、三日でよみがえってみせるぞ」という発想になろうかと思います。ただ単にこれはイエスの殉教物語のようなものではなくて、自分がどのような仕方で殺されようとも、そのままでは終わらないということです。「三日目に」「よみがえり=陰府から帰る」において、別の物語を一人ひとりに備えてあげようという意志があるということです。この「三日目に」という言葉は、そう遠くない将来、かなり近い将来、もうすぐ、という意味合いで使われています。ファンタジーの類型の一つ「往きて還りし物語」は、主人公が別世界に往き、何らかの課題解決をする過程で成長し、現実世界に戻ってくるというものです。イエスの「よみがえり」は、この「往きて還りし物語」と同質のもの、新しい事態への移行と読むことができます。イエスの物語の読み手(教会)は、イエスが経験した生涯、嘲弄の末十字架で殺され、確実に死に果て、「陰府にくだり」、しかし「三日目に」「よみがえり」という時に、自分の状況に対する希望を読み取ることができます。イエスの「往きて還りし物語」が、イエスのゆえに我が身にも起こりうるということ。そのように備えられている物語を一人ひとりが、そして教会という群れが生きるようにと促されているということです。
 わたしたちはこの世に生まれ、育ち、今こうしてここにいます。この世に生きる限りにおいて、様々な悩みや苦しみ、大きな課題、解決困難な問題、そんなものを誰もが抱えています。わたしたちが夜一人になって今日一日どうであったか、また今までのことを振り返り、将来のことを考えるときに、やり残している問題に思い当たります。それに対しての答えが見つからない、そこで焦ったりすることもあります。
 これらの現実に対して「三日目に」という事柄は、もしかしたら乱暴な響きをもつかもしれないけれども、様々な解決困難な問題を抱えたわたしたち一人ひとりに対して「大丈夫」と、「もうすぐ」「程なくして」その答えが来るに違いないという一つの励ましのようなものではないでしょうか。そのために、イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と胸を張って答えたのではないでしょうか。「もうすぐだ」「程なくして」何かしらが変わるのだと。聞きようによっては非常に無責任かもしれません。けれども、そこに何かしらの希望を抱いていてもいいじゃないか、もしそれが信じられなくてもイエスが語ってくださる「三日で建て直してみせる」との言葉のゆえに何かが起こるのだから。もうしばらくすれば、すぐ起こるのだから、を希望の言葉として受け止めることができないでしょうか。

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