ペトロの手紙一 3章18~22節 「陰府にくだり-使徒信条講解13」
ペトロの手紙一は、キリスト者の生活を整える根拠を、キリストの苦しみから天に上って神の右へと至る旅路のあり方から示そうとしています。ノアの物語を思い起こさせながらキリスト者の生活の初めとしての洗礼を位置付けます。水の中を通ってという動機について、その時は8人にすぎなかったけれども、キリスト者はすでに増えているのだからとも言いたげです。キリストの苦しみ、死、天に上る、そして神の右に至る旅が、キリスト者の今を復活において救われているとしています。さらには、天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服していると続けます。
「陰府にくだり」という言葉の示す方向は、死のかなたの低みの低み、呪われた場、忌まわしい場であったとは言えそうです。
わたしたちは、多かれ少なかれ生きながらにして「陰府」あるいは「地獄」のようなものを経験することがあります。「試み」だと思われることや困難な課題のただ中に置かれる時に感じる経験です。「陰府にくだり」という文言は、主イエスがそこおいても共におられる仕方で来られた(来られる)という事実確認が課題になっているのです。
たとえば、讃美歌21の200番の羊飼いの「遠くの山々 谷そこまで」行く姿を「陰府にくだり」と重ね合わせて読むことができるのではないでしょうか。
主イエスをキリストと信じ、告白するということは、ただ単に心の、内面の問題や課題ではありえないと言わなければなりません。主イエス・キリストの「陰府にくだり」という事実は、わたしたちの困難な課題や問題のただ中において支えきる、守り切るという決意を信じる言葉です。
「陰府にくだり」という箇条を唱え、聖書を読み、祈る中で、ふと振り向いたときに、そこにいる共に来て(いて)くださる主イエスに気づくことがあるのだと信じるのです。
「陰府にくだり」という文言に示されているのは、主イエスの旅の方向性です。誕生、生涯、十字架の死、陰府、よみがえり(陰府帰り)、昇天という道は、図式としての教えに留まらないのです。人それぞれの抱えている課題に対して、寄り添う主イエスの決意の表れが動的に記されているのです。主イエスの旅路は、わたしたちを生かし、支え、導くのです。わたしたちの、この世から天に向かう旅路の同行者であるがゆえに、今この世に生きるわたしたちにとって、信仰という一本の杖として、主イエスはわたしたちの旅に伴っていてくださるのです。ここに信頼を寄せつつ歩む群れでありたいと願います。
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