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2019年6月

2019年6月30日 (日)

マルコによる福音書 7章24~30節 「イエスの回心」 井谷淳

 本日のこの箇所はイエス伝道の大きなターニングポイントの一つとして選ばせて頂きました。ユダヤ教という枠組みを越え、現在私達の身近に存在する「世界宗教であるキリスト教」へと連なる第一歩が本日のこの聖書場面からはじまったのではないかと私は捉えております。
 ユダヤ教エッセネ派ラビであった青年イエスは、その伝道旅行の途上である日、ユダヤとの国境沿いに位置する「地中海都市ティルス」に立ち寄った。その町には、長い期間「不治の病」に苦しんでいた娘の母親がいた。母親は、疲弊した精神状態の中でも、娘の病が治るようにと毎日祈りを欠かさず、神に懇願していた。諦めかけていた矢先に、国境の向こう側で、奇跡をおこし難病を次々に快復させると噂される「ユダヤ教ラビ.イエス」の来訪が、隣人によって告げ知らされた。藁にもすがる思いで母親は形振り構わず、イエスに詰め寄り娘の治療を懇願した。イエスは娘の母親の治療の依頼に困惑した。何故ならこの地域はギリシャ神話に代表される「異教の神々」が支配する土地であり、地元の人々の霊的治療を司る「エシュルン神殿」という祭所が存在していたからである。当時は国や地域毎に定められた「治療行為上のテリトリー」が存在した。それはユダヤ国内、ユダヤ教内の諸教派はおろか、同一の教派内の中ですら厳しい「縄張りの規定」が存在したのである。イエスがユダヤ国内で霊的治療行為を行った後、「この事を人に言ってはいけない」という言葉を発するのは、ユダヤ国内でのユダヤ教他教派、他宗波の「縄張り」を侵犯していることを意味する。ましてやこの地「ティルス」は外国の地である。ここで治療行為をした事が明るみになれば、他宗教の権限を侵犯したとして命が危うくなる。いやたとえ治療後、この地を無事脱出することが出来たとしても、この事がユダヤ国内に知れれば大本の「ユダヤ教ラビ」という社会的立場も危うくなる。
 罪状は「異教の神々を信奉する(異教徒)を許可なく治療した罪」である。母親との初期段階におけるやり取りの最中のイエスの心情は以下のとおりである。
 「私は後に宗教裁判にかけられるだろう。この地から逃れられたとしても、私はユダヤ教ラビの立場を剥奪される。(ラビとしての私)の治療を待っている人達がユダヤ国内には大勢いるのだ。ここで危険を犯している理由も時間もない、この母親と娘には気の毒だが、」
 しかしイエスの侮蔑的な「治療依頼の拒否」に母親は、負けじと詰め寄る。困惑するイエス、しかしその時イエスは、必死の母親の姿に「神の臨在」を感じてしまったのである。追い詰められた「宗教者イエス」の苦渋の決断とは?
 イエスはこの場面において、この母親の存在により意識変革をさせられたのでありますが、イエスの意識を変えさせたのは、娘の母親の熱意と母親と伴にある「神の義」であります。この出来事によりイエスの宗教者としての意識は、ユダヤ教という枠組みを越え、より「普遍的な神の愛」へ転換させられてゆくのです。脱「ユダヤ教ラビ、イエス」の第一歩がここに記されているのではないでしょうか。    

2019年6月24日 (月)

使徒言行録 2章43~47節 「信じるために必要なこと」

~「花の日・こどもの日」子どもとおとなの合同礼拝~
 言葉が本当として伝わって、聞いた人が信じるためには、話しだけではなく行いも必要です。「民衆全体から好意を寄せられた。」とは、言葉の中に「本当」が明らかにされたということです。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので」とあります。助け合いながら、相手のことを思いやることを大切にしていたということです。裕福な人も貧しい人も一緒に食べることで、分かち合うことで、助け合うことを行ったのです。
 言葉と行いとがズレないためには、ただ単に正しい行いとして助け合えばいいというだけではありません。相手を大切だと心から思っていなければなりません。ここで気を付けたいのは、「良いことをしなければならない」ではないということです。ただ良いことを「する」ことが大切なのではありません。その「する」の基を見ていなければならないのです。行い、つまり「する」ことが大切なのではなく、「行い」の基こそが重要なのです。○○をするあなた、ではなく、あなたそのものが大事なのです。「する」よりも「ある」が大切なのです。「ある」が大切にされてこそ、「良い行い」をすることができるのです。
 一切の条件なしに、つまり、○○をしたら認めてあげるとか××をできてすごいね、そんなことではないのです。今のあるがままを条件なしに受け止め、認めるということ。これこそを大切にすることです。「する」を「本当」として支えるのは「ある」の全面的な保障なのです。
 主イエスを信じる人たちに「本当」が生まれたのは、主イエスが一人ひとりの今の「ある」を無条件に認めたことを根拠にして「する」という交わり・関係性を育てていく道筋に生きたからなのです。教会に代表される、人と人との関係は、主イエスの心である「聖霊」の働きによって、無条件に「ある」を認められた上で初めて「する」へと導かれることです。このような仕方で人と人とがつながっていくことができると今日の聖書は教えているのです。ここから初めて「一つにされたのである」が事として起こされていくのです。まず、自分自身の「ある」、そして他の人の「ある」を受け止めること、みんなそのままでOKだということ、それが信じるために必要なことです。

2019年6月23日 (日)

ペトロの手紙一 3章18~22節 「陰府にくだり-使徒信条講解13」

 ペトロの手紙一は、キリスト者の生活を整える根拠を、キリストの苦しみから天に上って神の右へと至る旅路のあり方から示そうとしています。ノアの物語を思い起こさせながらキリスト者の生活の初めとしての洗礼を位置付けます。水の中を通ってという動機について、その時は8人にすぎなかったけれども、キリスト者はすでに増えているのだからとも言いたげです。キリストの苦しみ、死、天に上る、そして神の右に至る旅が、キリスト者の今を復活において救われているとしています。さらには、天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服していると続けます。
 「陰府にくだり」という言葉の示す方向は、死のかなたの低みの低み、呪われた場、忌まわしい場であったとは言えそうです。
 わたしたちは、多かれ少なかれ生きながらにして「陰府」あるいは「地獄」のようなものを経験することがあります。「試み」だと思われることや困難な課題のただ中に置かれる時に感じる経験です。「陰府にくだり」という文言は、主イエスがそこおいても共におられる仕方で来られた(来られる)という事実確認が課題になっているのです。
 たとえば、讃美歌21の200番の羊飼いの「遠くの山々 谷そこまで」行く姿を「陰府にくだり」と重ね合わせて読むことができるのではないでしょうか。
 主イエスをキリストと信じ、告白するということは、ただ単に心の、内面の問題や課題ではありえないと言わなければなりません。主イエス・キリストの「陰府にくだり」という事実は、わたしたちの困難な課題や問題のただ中において支えきる、守り切るという決意を信じる言葉です。
 「陰府にくだり」という箇条を唱え、聖書を読み、祈る中で、ふと振り向いたときに、そこにいる共に来て(いて)くださる主イエスに気づくことがあるのだと信じるのです。
 「陰府にくだり」という文言に示されているのは、主イエスの旅の方向性です。誕生、生涯、十字架の死、陰府、よみがえり(陰府帰り)、昇天という道は、図式としての教えに留まらないのです。人それぞれの抱えている課題に対して、寄り添う主イエスの決意の表れが動的に記されているのです。主イエスの旅路は、わたしたちを生かし、支え、導くのです。わたしたちの、この世から天に向かう旅路の同行者であるがゆえに、今この世に生きるわたしたちにとって、信仰という一本の杖として、主イエスはわたしたちの旅に伴っていてくださるのです。ここに信頼を寄せつつ歩む群れでありたいと願います。

2019年6月17日 (月)

ルカによる福音書 11章1~13節 「聖霊をくださるのだから」

 今日の聖書の最初の部分では、弟子の一人から、ヨハネの弟子たちが行っているような祈りを教えてほしいと請われ、主イエスは、いわゆる「主の祈り」を語っています。神の主権が確かなものとされ、来るべき日に向かって責任的に生きること、きちんと食べられ、悪しき力や事柄から逃れつつ生きること、これらをそのために、しつこく、あるいは図々しいほどの熱意と根気によって、求め、探し、叩くことが大切なのだと主イエスは語ります。
 けれども、わたしたちはそのように熱意と根気に満ち溢れているしょうか。ましてや、ある大きな課題に直面し、困難で悩ましく、あるいは苦しさや悲しさに満ちている時、それほどの熱意と根気をもつことはできないのではないでしょうか。しかし、今、という現実に対しての無力さを思い知らされているところにこそ、神の言葉が届けられるのだとの信頼に立ちたいのです。
 霊の働きは、直接見ることも触れることもできないけれども、イエス・キリストが事を起こし、人を励まし支え、導く力として今、確実にあることを示します。わたしたちが、しつこく、あるいは図々しいほどの熱意と根気さによって、求め、探し、叩くことができるのは、能力や努力、信仰心によるのではありません。
 わたしが求めるよりも前に、すべてをご存知の方が、「求める者に聖霊を与えてくださる」と信じることが赦されているのです。
 「求める者に聖霊を与えてくださる」ことは、イエス故に与えられている希望です。主イエスは、わたしたち一人ひとりのことをすべて知っておられるのです。だからこそ、わたしたちは祈りによって聖霊である主イエスの働きをしつこく、図々しく求めることさえ赦されているのです。聖霊が働かれていることは、必ずしも実感できたり、具体的な体験として経験できるとは限りません。わたしたちの知らない仕方、理解できない仕方できているのかもしれないからです。できるのは、信じることです。
 わたしたちが聖霊の働きに気づくことができなくても、「求める者に聖霊を与えてくださる」ことをイエス故に希望することはできます。現代社会は深く病んでいます。この点について言葉を多く費やす必要はありません。喩としての「悪霊」や「悪魔」のリアリティーを否定できるほど人間社会は成熟してはいないのです。誰もが頭ではわかっていることだからです。しかし、心のどこかで仕方のないこととして諦めてしまっているように思えます。
 「求める者に聖霊を与えてくださる」ことを信じることは、「聖霊」である、主イエス・キリストが語り続けていることを受け止めることです。そして、この世にあって構造悪を変革していく力が備えられていることを知らされるのです。

2019年6月10日 (月)

マタイによる福音書 6章25~34節 「死にて葬られ-使徒信条講解12」

 わたしたちが、死の現実に根っこのところから揺さぶられるのは、二人称としての死の現実に対してです。二人称、すなわちわたしと関わりのある、わたしにとって大切な人の死です。この現実を悲しみと嘆きの中で受け止め、「喪」「グリーフワーク」を行っていくのが遺された者の務めです。死別を深く悲しみ嘆くことです。故人を思い続けることに没頭することや思い出すことには当然痛みが伴います。しかし、その場に留まり続け、様々な試みをしながらやがて、その死によってもたらされた喪失感に意味が与えられ、心の中に着地する道を求め探し続けていく、ここにしか新しい関係は作られていかないのです。この意味で故人との関係は、この世における死を超えて生き続けていくのです。
 「使徒信条」が「死にて葬られ」と告白される時、その愛する者の死の現実と、嘆き悲しむ遺族の現実に対して、イエスがその死をもって寄り添っていてくださるのだという守りがあること、この理解は助けとなります。いわば、イエスの死によって守られているがゆえに、悲嘆に没頭することが無条件で赦されているのだという態度決定があるからです。
 主イエスが「死にて葬られ」ている現実は、遺族の悲しみに寄り添い続けるという、十字架の主イエスのともなるあり方を指します。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫び息を引き取る。この、主イエスの絶望の死は、生涯を貫かれた楽天性を少しも傷つけるものではありません。いのちに対して「思い悩むな」という教えと無縁ではありません。むしろ、支えられているのです。空の鳥、野の花を指さしつつ語られたいのちの全面的な、そして無条件な肯定、だからこそ、かけがえのないいのちがこの世で失われることへの嘆き悲しみは大きい。しかし、そこに留まらないのです。
 8:23の「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」を冷たい言葉と読むのか、温かい言葉として読むのかの違いとも関係してきます。主イエスの楽天性からすれば、今確実に死者たちが守られていることを前提とした言葉として理解することができます。死者を放っておけということではなく、死者たちは神に守られているのだから心配するな、ということです。
 死ぬべきわたしたちは、主イエスの「死にて葬られ」と告白されるべき事態によって守られ支えられています。このような「思い悩むな」との守りの中にあって、悲嘆する遺族は支えられるのです。この支えられている今をご一緒に確認したいと思います。

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