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2019年5月19日 (日)

ペトロの手紙一 2章22~25節 「苦しみを受け-使徒信条講解10」

 主イエスは息を引き取られる時、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と十字架の苦しみのただ中で神に問うています。この場において神はその沈黙によってイエスを支えています。ここで注意しておきたい重要な点は、イエスが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と問うている姿勢が、絶望のただ中で読み手であるわたしたちに向かって、今の姿勢やあり方を捉えかえす契機として機能するように読まれることを期待されているということです。つまり、「苦しみ」をどのように理解するのかにおいてキリスト者の真価が問われる事態なのだということです。イエスの「苦しみ」の姿から、自らの「苦しみ」を光として理解する時にこそ、キリストの働きが露わにされていくのでしょう。
 イエスは、笑顔を忘れた人たちに喜びを取り戻す働きに力を注ぎましたが、重点は、「苦しみを受け」に集約されます。イエスの叫ばれた「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と問う言葉がわたしたちの間で聞かれることで、その言葉の意味が共鳴するところで何かが動き始めるのです。
 ハイデルベルク信仰問答(教会教育の指南書の一つ)には次の問いと答えが語られています。
【問37 「苦しみを受け」という言葉によって、あなたは何を理解しますか。
 答 キリストがその地上での御生涯のすべての時、とりわけその終わりにおいて、全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた、ということです。それは、この方が唯一のいけにえとして、御自身の苦しみによってわたしたちの体と魂とを永遠の刑罰から解放し、わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるためでした。】
 苦しみそのものの根源をイエスが自らの苦しみにおいて負っていてくださるという理解・告白です。神を前提にして発想する姿勢から自らを整えよという促しとして、わたしの中に響いてくるのです。
 今日の聖書には、イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」が今のこととして共鳴しています。わたしたちが、やってくる苦しみを怖れる必要もなければ、溺れてしまうこともないという固い約束を、イエスは「苦しみを受け」ることによって守り続けてくださっているのです。イエスの姿は、わたしたちにそれぞれの「苦しみ」のあり方を捉えかえす基準として、向かうべき方向を示していると信じことができるのです。イエスの「苦しみを受け」という事実を前提としてわたしたちの人生を捉えかえしていくようにとの見守りと祝福が、今ここには確実に臨在しているからです。したがって、暗い力をもった苦しみの中で、イエスに由来するいのちの明るさに包まれつつ歩むことへと召されていることを知らされているのです。

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