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2019年5月26日 (日)

ルカによる福音書 8章4~8節「種を蒔く」 山田 康博 

 イエス「種蒔き」の譬えで何を言おうとしているのか? 直前の段落で「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせた」(8:1)と記し。「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせ」ながらイエスは町々村々を巡って旅を続けられた。イエスが行った様々な「奇跡」を行ったりしたのも、ただ「神の国の福音を」証しするためであった。今は不真実がこの世界を支配している。ありとあらゆる不真実がある。そのために我々は時々望みを失う。しかし「神の真実の支配」が来るとイエスは言われる。否、それは既に人々の中で始まっていることを告げることが、イエスのメッセージだった。8章2節以下に注目したい。「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。」この女性たちは、イエスによって神の国の福音にふれ、新しく生き始め解放された。このことは女性たちだけではなかった。「悪霊に取りつかれたゲラサの人」(8:26以下)は男性だったが解放された。その後「12年間も出血が止まらなかった女性」(8:43以下)が出てくる。やはり当時「汚れた存在」とされた人々である。その解放の物語も語られる。「種蒔き」の譬えは、このような多くの解放の物語の文脈の中にある。そのことを考えるなら「種は神の言葉である」(8:11)とイエスが言われるが、その「神の言葉」は、単なる抽象的な言葉を意味せず、すべての人を偏見や差別から解放する「神の国の福音」に他ならない。この神の国の福音を、イエスは、農夫が種を蒔くように蒔いたのである。その種は、道端のような所にも、石がごろごろしているような石地にも、茨の近くにも、土地がある所ならどこにでも可能性を信じて蒔いたのだ。もちろん、成功しなかった場合もある。
 しかし重要なのは、この物語でイエスが最後に言っておられることだ。「ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、100倍の実を結んだ」(8:8)とイエスは言っている。良い土地に落ちた種は、おのずから芽を出す生命力が備わり多くの実を結ぶ。イエスはこの可能性にかけたのだ。多くの場合、無駄働きに終わること、徒労に終わることを重々知りながら、この可能性を信じて、彼は至る所に種を蒔いた。そして、同じことを私たちにも求めておられるのではないだろうか。

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