マルコによる福音書 15章1~15節 「ポンテオ・ピラトのもとに-使徒信条講解9」
イエスに出会い、この人にこそ本当があると知らされた人にとっては、「イエスは罪なし」です。しかし、イエスという存在そのものがローマ帝国やユダヤ教社会にとって都合が悪いと判断する勢力からは明らかに罪ありとされたのです。死刑にするかどうかは、その時の権力の判断によってなされます。差別的な格差社会にあって、人と人が支え合い認め合う、水平社会を目指すイエスの生き方は、当時のローマの価値観からもユダヤの価値観からも危険思想であると判断されます。だから、政治犯として、また奴隷としての見せしめの十字架刑に定められたのです。イエスが殺されるのは、裁判の手続き以前に決まっていたとさえ言えるのかもしれません。
ピラトに与えられた役回りはイエスを死刑、しかも十字架刑にすると宣言することでした。ポンテオ・ピラトとは、狡猾で冷酷、あるいは優柔不断な人間、いずれにしてもローマ帝国の判断を代表するものです。法的にも、国家的にもイエスの十字架による処刑に責任を負う人物なのです。
だから、使徒信条が「ポンテオ・ピラトのもとに」と語る時、神の国に敵対する偽りの権力を批判しつつ、神になり替わろうとする地上の国を無化し、相対化、さらに言えば廃絶を目指す方向をも射程に入れていると言えるのです。主イエス・キリストの存在自身が神の国であるということを根拠にしてです。ローマ帝国という国は、神の国であるイエスを十字架刑に処する判断をくだしたことで、さばかれているのです。国家の限界を暴き、人間性の快復をめざしたイエスをより明確に示す言葉、それが「ポンテオ・ピラトのもとに」ということです。
この世の国において神の国を生きるためには、神の支配のあり方に生かされてある今を取り戻さなくてはなりません。支配する側とされる側という権力の行使によってなされる関係性ではなくて、今抑圧され、疎外され、剥奪され、弾圧され、搾取されている「ポンテオ・ピラトのもと」にあって抗う生き方の中にこそ神の国があるのだというイエスの立ち位置を明らかにし、そこに連なるのがキリスト者のあり方なのだと認めるところに立ち返ることが、今日的課題として示されているのです。
国家や法によって抑圧され、収奪される人々と共にいることを決意したイエスに連なることです。ポンテオ・ピラトに代表される勢力の側にではなく、彼から苦しめられている側への生き方の変換に生きることが「御国を来たらせたまえ」という祈りによって支えられることです。
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