ガラテヤの信徒への手紙3章6~14節「十字架につけられ-使徒信条講解11」
皆さんのイメージする十字架とは、どのようなものなのでしょうか。光り輝く神々しくも美しくあるイメージでしょうか。たとえば、アクセサリーとして身につけられるほどに。十字架刑は、ユダヤ人にとっても異邦人であるローマ人にとっても受け入れがたい、おぞましいものでした。磔る前に鞭などで打ち、侮辱した上で、木に釘づけたのです。身体は損なわれ、痛みをより長く与え、さらには人々に晒すものでした。やがて屍は鳥や獣に食べられ、また腐るがままにされたのです。イエスの場合、あまりにも早く死んでしまったとあります。出血量が多かったのでしょう。また、亡骸は捨て置かれずアリマタヤ出身のヨセフという人がせめて埋葬だけでもという願いを持って引き取ったとされます。
十字架は決して美しいものではありません。血や糞尿などにまみれ、悪臭漂い、無残なものです。人をこれまでかと言うほど、そのいのちを侮辱しつつ殺していく死刑の方法であったのです。異邦人とされるローマの考え方からすれば、反逆者、政治犯、奴隷の処刑です。ユダヤ教によれば(申命記21:22-23)呪われた死です。
わたしたちの存在を無条件で認め、赦し、生かすために、本来わたしたちこそが受けなければならない呪い一切を主イエスが引き受け、あがないとして生贄となられた事実。ここにこそ、キリスト教信仰の中心の中心があります。わたしたちの身代わりとなることによって、呪いをうけることによって、わたしたちのいのちを祝福へと至らせるこころ、主イエスの丸ごとの存在が示されているのです。主イエスを信じ従う者とは、この十字架の事実・出来事に打たれたものを指します。主イエスが十字架で殺されていくことによって、「わたし」はいのちへと呼び覚まされ、生きるべき道が備えられていることを知らされるのです。
十字架とは、信じる者にとっては生きるべき方向を決定させる展開点です。悲惨さと惨めさと弱さの極みである十字架刑による死によって、その死の姿からいのちへの招きへと逆説的に祝福へと招かれている事実に立つところに、今生かされているのです。
キリストに信じ従うことは、この世の春を謳歌するような華やかさに生きることではありません。わたしたちの日々のしかかる苦しみの中にあって、主イエスの苦しみと十字架ゆえに、あえて勇気と希望のもとに自らの重荷を負いつつも、祝福されてあるいのちを生き抜いていくことです。その力が、十字架の主イエスのゆえに、わたしたち一人ひとりにすでに備えられていることを信じることができるようにと赦され、招かれている。ここに十字架ゆえのわたしたちの救いの道が、今のこととしてあることが知らされているのです。
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