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2019年5月

2019年5月27日 (月)

ガラテヤの信徒への手紙3章6~14節「十字架につけられ-使徒信条講解11」

 皆さんのイメージする十字架とは、どのようなものなのでしょうか。光り輝く神々しくも美しくあるイメージでしょうか。たとえば、アクセサリーとして身につけられるほどに。十字架刑は、ユダヤ人にとっても異邦人であるローマ人にとっても受け入れがたい、おぞましいものでした。磔る前に鞭などで打ち、侮辱した上で、木に釘づけたのです。身体は損なわれ、痛みをより長く与え、さらには人々に晒すものでした。やがて屍は鳥や獣に食べられ、また腐るがままにされたのです。イエスの場合、あまりにも早く死んでしまったとあります。出血量が多かったのでしょう。また、亡骸は捨て置かれずアリマタヤ出身のヨセフという人がせめて埋葬だけでもという願いを持って引き取ったとされます。
 十字架は決して美しいものではありません。血や糞尿などにまみれ、悪臭漂い、無残なものです。人をこれまでかと言うほど、そのいのちを侮辱しつつ殺していく死刑の方法であったのです。異邦人とされるローマの考え方からすれば、反逆者、政治犯、奴隷の処刑です。ユダヤ教によれば(申命記21:22-23)呪われた死です。
 わたしたちの存在を無条件で認め、赦し、生かすために、本来わたしたちこそが受けなければならない呪い一切を主イエスが引き受け、あがないとして生贄となられた事実。ここにこそ、キリスト教信仰の中心の中心があります。わたしたちの身代わりとなることによって、呪いをうけることによって、わたしたちのいのちを祝福へと至らせるこころ、主イエスの丸ごとの存在が示されているのです。主イエスを信じ従う者とは、この十字架の事実・出来事に打たれたものを指します。主イエスが十字架で殺されていくことによって、「わたし」はいのちへと呼び覚まされ、生きるべき道が備えられていることを知らされるのです。
 十字架とは、信じる者にとっては生きるべき方向を決定させる展開点です。悲惨さと惨めさと弱さの極みである十字架刑による死によって、その死の姿からいのちへの招きへと逆説的に祝福へと招かれている事実に立つところに、今生かされているのです。
 キリストに信じ従うことは、この世の春を謳歌するような華やかさに生きることではありません。わたしたちの日々のしかかる苦しみの中にあって、主イエスの苦しみと十字架ゆえに、あえて勇気と希望のもとに自らの重荷を負いつつも、祝福されてあるいのちを生き抜いていくことです。その力が、十字架の主イエスのゆえに、わたしたち一人ひとりにすでに備えられていることを信じることができるようにと赦され、招かれている。ここに十字架ゆえのわたしたちの救いの道が、今のこととしてあることが知らされているのです。

2019年5月26日 (日)

ルカによる福音書 8章4~8節「種を蒔く」 山田 康博 

 イエス「種蒔き」の譬えで何を言おうとしているのか? 直前の段落で「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせた」(8:1)と記し。「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせ」ながらイエスは町々村々を巡って旅を続けられた。イエスが行った様々な「奇跡」を行ったりしたのも、ただ「神の国の福音を」証しするためであった。今は不真実がこの世界を支配している。ありとあらゆる不真実がある。そのために我々は時々望みを失う。しかし「神の真実の支配」が来るとイエスは言われる。否、それは既に人々の中で始まっていることを告げることが、イエスのメッセージだった。8章2節以下に注目したい。「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。」この女性たちは、イエスによって神の国の福音にふれ、新しく生き始め解放された。このことは女性たちだけではなかった。「悪霊に取りつかれたゲラサの人」(8:26以下)は男性だったが解放された。その後「12年間も出血が止まらなかった女性」(8:43以下)が出てくる。やはり当時「汚れた存在」とされた人々である。その解放の物語も語られる。「種蒔き」の譬えは、このような多くの解放の物語の文脈の中にある。そのことを考えるなら「種は神の言葉である」(8:11)とイエスが言われるが、その「神の言葉」は、単なる抽象的な言葉を意味せず、すべての人を偏見や差別から解放する「神の国の福音」に他ならない。この神の国の福音を、イエスは、農夫が種を蒔くように蒔いたのである。その種は、道端のような所にも、石がごろごろしているような石地にも、茨の近くにも、土地がある所ならどこにでも可能性を信じて蒔いたのだ。もちろん、成功しなかった場合もある。
 しかし重要なのは、この物語でイエスが最後に言っておられることだ。「ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、100倍の実を結んだ」(8:8)とイエスは言っている。良い土地に落ちた種は、おのずから芽を出す生命力が備わり多くの実を結ぶ。イエスはこの可能性にかけたのだ。多くの場合、無駄働きに終わること、徒労に終わることを重々知りながら、この可能性を信じて、彼は至る所に種を蒔いた。そして、同じことを私たちにも求めておられるのではないだろうか。

2019年5月19日 (日)

ペトロの手紙一 2章22~25節 「苦しみを受け-使徒信条講解10」

 主イエスは息を引き取られる時、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と十字架の苦しみのただ中で神に問うています。この場において神はその沈黙によってイエスを支えています。ここで注意しておきたい重要な点は、イエスが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と問うている姿勢が、絶望のただ中で読み手であるわたしたちに向かって、今の姿勢やあり方を捉えかえす契機として機能するように読まれることを期待されているということです。つまり、「苦しみ」をどのように理解するのかにおいてキリスト者の真価が問われる事態なのだということです。イエスの「苦しみ」の姿から、自らの「苦しみ」を光として理解する時にこそ、キリストの働きが露わにされていくのでしょう。
 イエスは、笑顔を忘れた人たちに喜びを取り戻す働きに力を注ぎましたが、重点は、「苦しみを受け」に集約されます。イエスの叫ばれた「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と問う言葉がわたしたちの間で聞かれることで、その言葉の意味が共鳴するところで何かが動き始めるのです。
 ハイデルベルク信仰問答(教会教育の指南書の一つ)には次の問いと答えが語られています。
【問37 「苦しみを受け」という言葉によって、あなたは何を理解しますか。
 答 キリストがその地上での御生涯のすべての時、とりわけその終わりにおいて、全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた、ということです。それは、この方が唯一のいけにえとして、御自身の苦しみによってわたしたちの体と魂とを永遠の刑罰から解放し、わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるためでした。】
 苦しみそのものの根源をイエスが自らの苦しみにおいて負っていてくださるという理解・告白です。神を前提にして発想する姿勢から自らを整えよという促しとして、わたしの中に響いてくるのです。
 今日の聖書には、イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」が今のこととして共鳴しています。わたしたちが、やってくる苦しみを怖れる必要もなければ、溺れてしまうこともないという固い約束を、イエスは「苦しみを受け」ることによって守り続けてくださっているのです。イエスの姿は、わたしたちにそれぞれの「苦しみ」のあり方を捉えかえす基準として、向かうべき方向を示していると信じことができるのです。イエスの「苦しみを受け」という事実を前提としてわたしたちの人生を捉えかえしていくようにとの見守りと祝福が、今ここには確実に臨在しているからです。したがって、暗い力をもった苦しみの中で、イエスに由来するいのちの明るさに包まれつつ歩むことへと召されていることを知らされているのです。

2019年5月 5日 (日)

マルコによる福音書 15章1~15節 「ポンテオ・ピラトのもとに-使徒信条講解9」

 イエスに出会い、この人にこそ本当があると知らされた人にとっては、「イエスは罪なし」です。しかし、イエスという存在そのものがローマ帝国やユダヤ教社会にとって都合が悪いと判断する勢力からは明らかに罪ありとされたのです。死刑にするかどうかは、その時の権力の判断によってなされます。差別的な格差社会にあって、人と人が支え合い認め合う、水平社会を目指すイエスの生き方は、当時のローマの価値観からもユダヤの価値観からも危険思想であると判断されます。だから、政治犯として、また奴隷としての見せしめの十字架刑に定められたのです。イエスが殺されるのは、裁判の手続き以前に決まっていたとさえ言えるのかもしれません。
 ピラトに与えられた役回りはイエスを死刑、しかも十字架刑にすると宣言することでした。ポンテオ・ピラトとは、狡猾で冷酷、あるいは優柔不断な人間、いずれにしてもローマ帝国の判断を代表するものです。法的にも、国家的にもイエスの十字架による処刑に責任を負う人物なのです。
 だから、使徒信条が「ポンテオ・ピラトのもとに」と語る時、神の国に敵対する偽りの権力を批判しつつ、神になり替わろうとする地上の国を無化し、相対化、さらに言えば廃絶を目指す方向をも射程に入れていると言えるのです。主イエス・キリストの存在自身が神の国であるということを根拠にしてです。ローマ帝国という国は、神の国であるイエスを十字架刑に処する判断をくだしたことで、さばかれているのです。国家の限界を暴き、人間性の快復をめざしたイエスをより明確に示す言葉、それが「ポンテオ・ピラトのもとに」ということです。
 この世の国において神の国を生きるためには、神の支配のあり方に生かされてある今を取り戻さなくてはなりません。支配する側とされる側という権力の行使によってなされる関係性ではなくて、今抑圧され、疎外され、剥奪され、弾圧され、搾取されている「ポンテオ・ピラトのもと」にあって抗う生き方の中にこそ神の国があるのだというイエスの立ち位置を明らかにし、そこに連なるのがキリスト者のあり方なのだと認めるところに立ち返ることが、今日的課題として示されているのです。
 国家や法によって抑圧され、収奪される人々と共にいることを決意したイエスに連なることです。ポンテオ・ピラトに代表される勢力の側にではなく、彼から苦しめられている側への生き方の変換に生きることが「御国を来たらせたまえ」という祈りによって支えられることです。

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