コリントの信徒への手紙一 8章1~6節 「我らの主-使徒信条講解6」
他の神々がいるとの主張が世の中に満ち溢れてはいるけれども、それら一切を認めない、自分には唯一の神しかいないというパウロの信仰的決断というか信念が根っこにあります。この信仰的判断はパウロの素養とも関係がありますが、十戒の初めにある部分を前提としています。出エジプト記2章の2節と3節です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」
わたしたちは聖書の証言する神を信じているので、「他のいかなる神々」とは全く関わりのないことだと考える方もあるかもしれません。しかし、「神々」とはただ単に他の神とか宗教とかの意味ではないのです。現実生活の中で「わたし」に支えや励みや価値基準などを与えるもの一切が神になりうるのです。王や皇帝などの直接的な権力に留まらず、お金であったり、知識や経験であったり、権力であったり、自分が物事を普通に考えてしまう根拠それ自体であったりするのが「神々」なのです。つまり、その人の心を動かし、考えを決めさせ、何かしらの判断をくだす基準それ自体のことです。「神々」の存在は、キリスト者であっても避けることの困難な誘惑の一つなのです。
バルメン宣言『第1テーゼ』には以下の文言があります。【教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。】ここで言う「誤った教え」とは「神々」と別のことではありません。茶色に染まっていくドイツにあって「唯一の御言葉」であるイエス・キリストに堅く立つという信仰告白の事態なのです。この「唯一のみ言葉」であるイエス・キリストのみが「我らの主」なのです。
これからこの日本という国がどのような色に染められていくのかは分かりません。しかし、教会は主イエス・キリストのみを「我らの主」と告白し続けていくことが求められているのです。イエスが「我らの主」であることは、広い意味での教会の交わりの共同性によって育てられていくのです。最低限、「二人または三人」必ず誰かと一緒にでなければなりません(マタイ18:20)。教会的な交わりは、目標を持っています。全世界が神の思いに満たされることを願う道です。パウロのフィリピの信徒への手紙では、その方向付けがなされています(フィリピ2:1-11)。 「唯一の神」こそが「我らの主」であることに、わたしたちは支えられており、存在が赦されているのです。この赦された存在への、この広がりゆく「我らの主」の開かれた可能性を信じることが赦されているのです。
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