ヨハネによる福音書 3章16節 「その独り子‐使徒信条講解5」
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」との御言葉から、まず「その独り子」の「その」から始めます。もちろん、ここにある「その」の示しているのは神ご自身のことです。神は元々人間には認識できない存在なのですが、人間イエスの誕生によってわたしたちに近しいものとなったのです。
わたしたちと同じ人間となった「独り子」である主イエスは神であることをやめていないのです。このあたりの事情、つまり、主イエスが100パーセント神であり、同時に100パーセント人間であるのです(詳しくは讃美歌21・93-4の2「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」を参照のこと)。神とイエスは同質であるのです。
主イエスが「その独り子」つまり、「神である独り子」であるということは、歴代の王たちや権力者たちが自称・他称したような意味での「神」ないし「神の子」なのではありません。王たちや権力者たちが自らの欲望に基づき権力を拡大し、支配領域を拡大していく方向とは全く別の在り方です。「世を愛された」とは、他者を生き生きとさせ、生き直しへと招き、今のいのちを祝福し、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」を生き抜くことでした。十字架へと歩まれる主イエスは、「その独り子」としての生涯を歩まれたのです。
主イエスは「その独り子」であり続けることによって、わたしたちをも養子として「神の子ら」として招いてくださっているのです。この事情についてパウロは、コリントの信徒への手紙一15章20節において語りかけます。すなわち、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」
十字架へと歩まれる主イエスは復活の主でもあり、わたしたち一人ひとり、そして教会という群れを「神の子ら」として迎えていてくださるのです。このような意味において、わたしたちは「その独り子」ゆえに「神の子ら」としての道に感謝と賛美をもって連なり、応答していく自由が与えられているのです。主イエス・キリストのみが「その独り子」であるということ。この方が初穂であるがゆえに、わたしたちが「神の子ら」として受け入れられていることは喜ばしい自由への招きがあるのです。
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