ローマの信徒への手紙 8章15~17節 「父なる神-使徒信条講解4」
まず、ゲツセマネの園での祈りを今一度思い起こしてみましょう(マルコ14:32-36)。ここには、主イエスの呻きの祈りの場のすぐ近くに存在し、共に呻きに共鳴する神がいます。主イエスの今を見守り支える神の臨在、ここにこそイエスと共なる神のイメージがあるのです。
この主イエスによってパウロは祈ることができるようにされたのです(ローマ8:14-17)。「神の霊」「この霊」である主イエスご自身からの働きかけによって初めて、わたしたちは「神の子」とされるのです。「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく」とあるように、自由への道を歩むようにと促されているのです。そして、さらに「神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」とパウロが語るように、主の苦しみと栄光を根拠にして、今をキリストと共に生きることができるようにされているのです。それが、神に対して「父」と呼ぶことが赦されているということです。さらに言えば、主イエスにあって呼びかけることができるのは、わたしたちに呼びかける権利や能力や知識があるからではありません。この意味では、わたしたちは無資格ですわたしたちの存在の根拠であり、わたしたちのいのちの源である方の側からの呼びかけに基づいてのみなのです。
ローマの信徒への手紙8:26には「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」とあります。呻くことによって執り成してくださっているのは、ゲツセマネの園での主イエスに他なりません。この「神の子」であるイエス・キリストにおいて、わたしたちが「子」として受け入れられているのです。神が「父」であるのは、主イエスがそのように呼んだ限りにおいてです。
キリスト者とは祈る人であると言われます。祈るためには相手が誰であるのかが分からなければなりません。教会の信仰においては、祈りをささげるべき方が、聖霊の働きによって、イエス・キリストにおいて明らかにされ、自ら語りかけてくださっていることが知らされているのです。だから、祈ることすらできない状況にあっても、神がわたしたちを待ち続けてくださっていることに信頼しましょう。何故なら、ゲツセマネの園での主イエスの傍らに、沈黙する熱意の神が共にいてくださったように、今わたしたちはその主イエスの祈りにおける執り成しのゆえに、人間の手の届かない天にいる神が、同時にこの場においても共にいてくださることを信じることが赦されているからです。
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