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2019年3月

2019年3月24日 (日)

ローマの信徒への手紙 8章15~17節 「父なる神-使徒信条講解4」

 まず、ゲツセマネの園での祈りを今一度思い起こしてみましょう(マルコ14:32-36)。ここには、主イエスの呻きの祈りの場のすぐ近くに存在し、共に呻きに共鳴する神がいます。主イエスの今を見守り支える神の臨在、ここにこそイエスと共なる神のイメージがあるのです。
 この主イエスによってパウロは祈ることができるようにされたのです(ローマ8:14-17)。「神の霊」「この霊」である主イエスご自身からの働きかけによって初めて、わたしたちは「神の子」とされるのです。「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく」とあるように、自由への道を歩むようにと促されているのです。そして、さらに「神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」とパウロが語るように、主の苦しみと栄光を根拠にして、今をキリストと共に生きることができるようにされているのです。それが、神に対して「父」と呼ぶことが赦されているということです。さらに言えば、主イエスにあって呼びかけることができるのは、わたしたちに呼びかける権利や能力や知識があるからではありません。この意味では、わたしたちは無資格ですわたしたちの存在の根拠であり、わたしたちのいのちの源である方の側からの呼びかけに基づいてのみなのです。
 ローマの信徒への手紙8:26には「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」とあります。呻くことによって執り成してくださっているのは、ゲツセマネの園での主イエスに他なりません。この「神の子」であるイエス・キリストにおいて、わたしたちが「子」として受け入れられているのです。神が「父」であるのは、主イエスがそのように呼んだ限りにおいてです。
 キリスト者とは祈る人であると言われます。祈るためには相手が誰であるのかが分からなければなりません。教会の信仰においては、祈りをささげるべき方が、聖霊の働きによって、イエス・キリストにおいて明らかにされ、自ら語りかけてくださっていることが知らされているのです。だから、祈ることすらできない状況にあっても、神がわたしたちを待ち続けてくださっていることに信頼しましょう。何故なら、ゲツセマネの園での主イエスの傍らに、沈黙する熱意の神が共にいてくださったように、今わたしたちはその主イエスの祈りにおける執り成しのゆえに、人間の手の届かない天にいる神が、同時にこの場においても共にいてくださることを信じることが赦されているからです。

ヨハネによる福音書 3章16節 「その独り子‐使徒信条講解5」

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」との御言葉から、まず「その独り子」の「その」から始めます。もちろん、ここにある「その」の示しているのは神ご自身のことです。神は元々人間には認識できない存在なのですが、人間イエスの誕生によってわたしたちに近しいものとなったのです。
 わたしたちと同じ人間となった「独り子」である主イエスは神であることをやめていないのです。このあたりの事情、つまり、主イエスが100パーセント神であり、同時に100パーセント人間であるのです(詳しくは讃美歌21・93-4の2「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」を参照のこと)。神とイエスは同質であるのです。
 主イエスが「その独り子」つまり、「神である独り子」であるということは、歴代の王たちや権力者たちが自称・他称したような意味での「神」ないし「神の子」なのではありません。王たちや権力者たちが自らの欲望に基づき権力を拡大し、支配領域を拡大していく方向とは全く別の在り方です。「世を愛された」とは、他者を生き生きとさせ、生き直しへと招き、今のいのちを祝福し、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」を生き抜くことでした。十字架へと歩まれる主イエスは、「その独り子」としての生涯を歩まれたのです。
 主イエスは「その独り子」であり続けることによって、わたしたちをも養子として「神の子ら」として招いてくださっているのです。この事情についてパウロは、コリントの信徒への手紙一15章20節において語りかけます。すなわち、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」
 十字架へと歩まれる主イエスは復活の主でもあり、わたしたち一人ひとり、そして教会という群れを「神の子ら」として迎えていてくださるのです。このような意味において、わたしたちは「その独り子」ゆえに「神の子ら」としての道に感謝と賛美をもって連なり、応答していく自由が与えられているのです。主イエス・キリストのみが「その独り子」であるということ。この方が初穂であるがゆえに、わたしたちが「神の子ら」として受け入れられていることは喜ばしい自由への招きがあるのです。

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