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2019年2月

2019年2月24日 (日)

ルカによる福音書 14章15~24節 「いらっしゃい」

~世界祈祷日を覚えての子どもとおとなの合同礼拝~
    -スロベニア共和国からのメッセージ-
テーマ:「いらっしゃい、準備はすっかりできています」

 イエスがたとえ話をされます。ある金持ちの主人が、自宅に大勢の友だちや親せきを招いた。ところが、パーティー当日になってから次々に断ってきた。家の主人は怒ります。せっかくご馳走を用意して待っていたのに、色々な口実を付けて急に来られなくなったと言われれば当然のことです。畑を買ったり、牛を10頭買ったり、結婚するというのも突然決めることはあまりありません。前もって決めておくような大きなことです。それなのに、招かれたときにすぐ断らず、当日になってから断った。理由は二つ考えられます。一つはパーティーに行かないための口実。もう一つは、招かれた時、自分の予定を確認しなかったか、後から予定を入れた。いずれにしてもパーティーに招かれたことをそんなに喜んでいなかった、どうでもいいという感じです。
 そこで、家の主人は街の中で今まで招こうとしなかった人たちに心を向け直します。「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」と言うのです。さて、ここにイエスの食卓の意味がハッキリとしてきます。神はイエスを遣わすことで何をしたいのかが分かってくるのです。貧しい人や弱っている人たちをこそ招くことが神の願いであり、これを実現することを聖書は教えているのです。「いらっしゃい、準備はすっかりできています」と語り合える社会が、神の願いに満ちた神の国を指し示していくのだというのです。
 スロベニアは、日本の四国くらいの大きさで、人口は200万人。そんなに小さい国でも、豊かな部分もあれば、貧しい部分もあります。スロベニア共和国は、美しい場所が沢山あり、豊かに暮らしている人も大勢いるはずです。けれども、今日の礼拝で心にとめたいのは、スロベニア共和国の中で弱い立場や悩みの多い人たちです。少数民族やシングルマザー、アルコールや薬物依存の人やその家族。
 神は、この世界を創られた時、「良い」と言われました。それは、できたばかりの世界、万物があるべき場所、あるべき形に収まっている、バランスのとれた世界です。あの世界のように、皆が心から喜んで暮らせるようにと神は願っているのです。
 人は関係性に生き、同時に生かされていくものです。他の誰かと一緒でなければ幸せだとは言えません。幸せに生きていくために、イエスが立場の弱い人たち、病気の人たち、悩んでいる人たちに「いらっしゃい、準備はすっかりできています」と呼びかけてくださっている。このことに倣って、受け入れ合う社会を造っていくことが求められています。

2019年2月10日 (日)

マタイによる福音書 28章16~20節 「世の終わりまで」

 聖書は、旧約の創世記の天地創造物語から始まり、新約のヨハネの黙示録で終わります。この聖書の形式によって分かるのは、キリスト教信仰からの歴史理解では始めがあれば終わりもあるということです。そして、この歴史を神が常に導くのだという理解が根底にあります。
 わたしたちは、「世の終わりまで」という限定された「今」を、インマヌエルの事実に支えられつつ生かされているのです。主イエスが共にいてくださることにより、わたしたちは孤独から解かれていきます。そして、さらには他者に向かっていく道へと導かれていくところに、わたしたちの信仰の今があります。これは、教会という閉じられた意味での「わたしたち」に留まりません。教会を越えた「神の国」という広がりに向かっていく可能性としての「わたしたち」です。「神の国」と呼ばれるところの「神の平和」とは、まことの意味で差別や抑圧がなく、まことの意味で人権が守られていく世界観です。ここに向かって指さす業がわたしたちに求められており、その証しを支えるのがインマヌエル・神は我らと共におられるということです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と復活の主イエス・キリストは今日、わたしたちに呼びかけています。
 主イエスは、次のように語られました。【疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。】(11:28-30)
 この言葉どおりに主イエスは生きられたからこそ、ここにはまことがあるのです。この主イエスの言葉に生かされる教会は、讃美歌21・504「主よ、み手もて」の4番を生きていくように導かれていくのです。
 【この世を主にささげまつり/かみのくにと/なすためには/せめもはじも/死しもほろびも /何かはあらん/主にまかせて。】
 この共にいてくださる主イエス、復活のキリストの支えによって証しの生涯を、「世の終わりまで」を見極めつつ歩んでいきましょう。

2019年2月 3日 (日)

ヨハネによる福音書 13章1~17節 「弟子の足を洗うイエス」

 足を洗うとはどのようなものだったのでしょうか。当時は裸足か、せいぜいヒモ付きサンダルのようなもので歩いていたようですから、ほこりや泥、汗でかなり汚れていたことでしょう。その汚れを水で綺麗にすることは、奴隷の仕事とされていたようです。異邦人奴隷より格上とされていたユダヤ人奴隷は免除されていたという資料もあります。足は汚れやすく、臭い。それを洗うことには古代人も抵抗があったのでしょう。しかし、この行為がなされたのです。何のためらいもなくイエスは弟子の足を洗ったのです。他者の汚れや臭いを自らに引き受ける仕方で、です。さらにイエスは、ただ自分がこのように行うことだけではなくて、弟子たちという関係へと広げていくようにと招きます(13:14-17)。
 主イエスご自身が奴隷として弟子たちに仕えることを、自らのあり方なのだ、よく見ておくように確認しておくようにとの行為であったと読めます。イエスの行った弟子たちの足を洗う行為は、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」との言葉から判断すると、関係性の創出が課題であると言えます。足を洗うその手が、主イエスと弟子たち、すなわち「わたし」と「あなた」との間をつなぐのであり、それゆえにお互いのいのちの交流が豊かにされていくのです。より充実した生き方ができるのだという約束を感じることができるのです。主イエスは、このようにしてその人を全面的に受け入れていくことによって関係を作り出し、整え、育ててくださるのです。
 「足」の汚れたところ臭うところという現象を象徴として考えると、それぞれの人の欠点、弱さ、醜さ、と捉えられます。そこに向かって神の愛の手がイエスにおいて差し伸べられ、働かれることで清められていく。この働きに与ることから今度は「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」に至るために「互いに重荷を担いなさい」を歩まなくてはなりません。お互いの欠けを補い合っていくことが求められているのです。汚く臭い足を素手で洗いあえるようなあり方を目指し、展開していくことによって、人生の質をイエスにあって向上させながら歩む群れとして整えられつつあることを確認しましょう。

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