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2019年2月10日 (日)

マタイによる福音書 28章16~20節 「世の終わりまで」

 聖書は、旧約の創世記の天地創造物語から始まり、新約のヨハネの黙示録で終わります。この聖書の形式によって分かるのは、キリスト教信仰からの歴史理解では始めがあれば終わりもあるということです。そして、この歴史を神が常に導くのだという理解が根底にあります。
 わたしたちは、「世の終わりまで」という限定された「今」を、インマヌエルの事実に支えられつつ生かされているのです。主イエスが共にいてくださることにより、わたしたちは孤独から解かれていきます。そして、さらには他者に向かっていく道へと導かれていくところに、わたしたちの信仰の今があります。これは、教会という閉じられた意味での「わたしたち」に留まりません。教会を越えた「神の国」という広がりに向かっていく可能性としての「わたしたち」です。「神の国」と呼ばれるところの「神の平和」とは、まことの意味で差別や抑圧がなく、まことの意味で人権が守られていく世界観です。ここに向かって指さす業がわたしたちに求められており、その証しを支えるのがインマヌエル・神は我らと共におられるということです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と復活の主イエス・キリストは今日、わたしたちに呼びかけています。
 主イエスは、次のように語られました。【疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。】(11:28-30)
 この言葉どおりに主イエスは生きられたからこそ、ここにはまことがあるのです。この主イエスの言葉に生かされる教会は、讃美歌21・504「主よ、み手もて」の4番を生きていくように導かれていくのです。
 【この世を主にささげまつり/かみのくにと/なすためには/せめもはじも/死しもほろびも /何かはあらん/主にまかせて。】
 この共にいてくださる主イエス、復活のキリストの支えによって証しの生涯を、「世の終わりまで」を見極めつつ歩んでいきましょう。

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