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2019年2月 3日 (日)

ヨハネによる福音書 13章1~17節 「弟子の足を洗うイエス」

 足を洗うとはどのようなものだったのでしょうか。当時は裸足か、せいぜいヒモ付きサンダルのようなもので歩いていたようですから、ほこりや泥、汗でかなり汚れていたことでしょう。その汚れを水で綺麗にすることは、奴隷の仕事とされていたようです。異邦人奴隷より格上とされていたユダヤ人奴隷は免除されていたという資料もあります。足は汚れやすく、臭い。それを洗うことには古代人も抵抗があったのでしょう。しかし、この行為がなされたのです。何のためらいもなくイエスは弟子の足を洗ったのです。他者の汚れや臭いを自らに引き受ける仕方で、です。さらにイエスは、ただ自分がこのように行うことだけではなくて、弟子たちという関係へと広げていくようにと招きます(13:14-17)。
 主イエスご自身が奴隷として弟子たちに仕えることを、自らのあり方なのだ、よく見ておくように確認しておくようにとの行為であったと読めます。イエスの行った弟子たちの足を洗う行為は、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」との言葉から判断すると、関係性の創出が課題であると言えます。足を洗うその手が、主イエスと弟子たち、すなわち「わたし」と「あなた」との間をつなぐのであり、それゆえにお互いのいのちの交流が豊かにされていくのです。より充実した生き方ができるのだという約束を感じることができるのです。主イエスは、このようにしてその人を全面的に受け入れていくことによって関係を作り出し、整え、育ててくださるのです。
 「足」の汚れたところ臭うところという現象を象徴として考えると、それぞれの人の欠点、弱さ、醜さ、と捉えられます。そこに向かって神の愛の手がイエスにおいて差し伸べられ、働かれることで清められていく。この働きに与ることから今度は「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」に至るために「互いに重荷を担いなさい」を歩まなくてはなりません。お互いの欠けを補い合っていくことが求められているのです。汚く臭い足を素手で洗いあえるようなあり方を目指し、展開していくことによって、人生の質をイエスにあって向上させながら歩む群れとして整えられつつあることを確認しましょう。

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