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2019年1月

2019年1月27日 (日)

ルカによる福音書 19章41~48節 「イエスの目指したこと」

 イエスが目指したものは言うまでもなく、平和です。イエスの時代は表面上、平和であったとされます。それは、いわゆる「ローマの平和」と言われます(BC27年~AD192年)。反乱など起こるのですが、軍事的に鎮圧することで保たれていたのです。これは偽りの平和です。
 イエスはかなり独自の路線を取っています。ローマに対してもユダヤ権力に対しても、媚びてすり寄っていくことをしない。さらには、ユダヤ教過激派のように出エジプト伝承を基準にしてモーセの再来であるかのように振る舞うこともしないのです。ローマからユダヤ民族を解放する武装蜂起の発想もありません。
 イエスは、現在・過去・未来が集約された今、として神の国としてある確信に生きました。富んでいる者、強い者、権力ある者ではなくて、貶められている者、貧しい者、虐げられている者こそが神の国にまず招かれ、喜ばれた存在として無条件に無資格なまま受け入れられる、そのような神の国が現臨しているというのです。これを根拠にしながらイエスは、今生かされてある喜びを分かち合うという意味において、あの時代のパレスチナで活動していたのです。このことがユダヤ教徒ローマの当局からすれば、許し難く死に値すると判断され、そしてイエスは十字架に磔られるのです。
 それが、偽りの平和の中でまことを求めることです。いのちを祝い合っていくのです。「神の訪れてくださる時をわきまえなかったから」崩壊していくことを防ぐべく、イエスは独り闘われたのです。神の訪れとはイエス・キリストの訪れです。ローマとユダヤの権力とは全く別の道。一人ひとりがその場にあって大切にされてくる社会・世界。外面的な平和が反映することよりも、そこからはじき出されるようにされている一人ひとりが喘ぎながら苦しんでいる、その人たちを今生かされてあるいのちは全く無条件に尊いことを取り戻していこうという歩みだったのです。
 今日の聖書でイエスが泣かれたというのは、現実がそうなっていないということに対して、もしかしたら絶望し嘆いて泣いているのかもしれない。しかし、泣かれたイエスの思いが問いたかったものは、確かに十字架の処刑において粉砕されてしまったのかもしれない。復活という出来事において、イエス・キリストが全面的に肯定されたという時点から、流されたこのイエスの涙の意味が嘆き悲しみから喜びへと転じていく方向に向かって解釈される必要があります。わたしたちは神の国の支配領域の中で生かされてあるのだから、神の国の力を受け、偽りの平和の中でまことを求めていくのです。ここに、明るい招きが語られているからです。

2019年1月20日 (日)

ルカによる福音書 12章49~53節 「偽りの平和に否!」

 わたしたちの課題は、平和をもたらす主イエスと火を投じる主イエスとを統合させて受け止めることなのではないでしょうか。火とは滅びへ導く裁きを意味します。この裁きのイメージは、おそらく洗礼者ヨハネから引き継いだものもあるかもしれません(3:7-9参照)。
 主イエス・キリストがこの世に遣わされたのは平和をもたらすためでありました。しかし、そこに導く主イエスの言葉と行いとは、場合や状況によっては火をもたらし波風を立て反発を招くものであり、その結果は政治犯として十字架刑に至るものだったことを忘れてはなりません。
 今日の聖書は、ですから火を投じる業が平和をもたらすために継続されていくことへの願いが込められているのです。そして、「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」というのは、サタンである悪魔はもはや壊滅寸前であり、あとは掃討戦のみだからです。掃討戦とは、ほぼ勝利している闘いにおいて、わずかに残る敵を殲滅することです(10:17-20参照)。サタンの壊滅は平和を意味します。
 平和理解の基礎には、天地創造物語においてなされた世界観があります。創世記1:31で 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」とあるようにトータルな世界観です。地球自体が憎しみや殺意などではなくて、お互いの喜びによって支えあい、助け合う関係性すべてが神を崇めるイメージです。何の衒いもなく「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。」(詩100:1)と告白し得る世界観です。
 この世界観から見た時「70年間戦争しなかった日本は、まがりなりにも平和であった」と言えるでしょうか。否!です。
 わたしたちは現代日本における現実に対して、悪の問題に対して無責任にではなく、責任的に生きていく道への態度決定に招かれていることを知らされるのです。もしかしたら、身近なところで分裂が起こる可能性もあります(12:51-53)。主イエス・キリストにおける無条件で全面的な<いのち>の肯定を阻む勢力に対して抵抗していく姿勢が問われるのです。
 したがって、わたしたちの決断や態度決定に勝って、まず主イエスご自身が態度決定をし、腹を据えていることが支えとなり、助けとなります。波乱に満ちた、そして漠然とした不安のような空気の中で溺れてしまうような現代社会の闇、悪の力が闊歩する今ここで、わたしたちは主イエス・キリストに立ち返ることから、常に新しく始めなければなりません。

2019年1月13日 (日)

ルカによる福音書 12章22~34節 「思い悩むな」

 わたしたちは「思い悩み」から自由でないことをよく知っています。自分の今の課題、病気や仕事、家族のことなど数えきれないほどであることは言うまでもないことだと思います。真剣に、そして真面目に生きようとするなら、それらに対してキチンと向き合わなければなりません。しかし、主イエスは「思い悩むな」と語ります。それは、各自の抱えている「思い悩み」に対する関係を今、もう一度冷静に捉えかえし、「思い悩み」の中に溺れてしまっているところから、それらの「思い悩み」を取捨選択し整理し、視点を変え重心を移すということです。今対峙している「思い悩み」の局面を打開していく道筋を示しているのではないでしょうか。
 そのたとえとして、カラスと野原の花を指しています。カラスは、レビ記の規定によれば「けがれた」ものとされ、イエスの時代にもユダヤ人の間では、忌み嫌われる鳥の代表としてカラスが捉えられていたことは理解されます。また、野原の花を「雑草」と読む説があります。「明日は炉に投げ込まれる」つまり、めでたりする商品価値がないと言えるからです。そしてカラスや雑草は主イエスの周りに集まっている下積みを余儀なくされた人々の現実の比喩と読み取れます。あなたたちの今の現実は、カラスのように嫌われ、疎んぜられる存在、雑草のように価値がないものとされ、踏みつけにされ、捨てられているのかもしれない。だから日々の暮らしの慌ただしさに溺れてしまうようにして自分たちを見失ってしまっているのではないですか、と。しかし、考えても見なさい。カラスや雑草が、あるがままに、一切の条件なしに、今いのちを貸し与えられていて輝いている現実、満ち満ちたいのちを。同じようにあなたたちの生命は、すでに祝福されてしまっているのだから、その事実に注目することによって「不要な思い悩み」から自由になりなさいと。あの栄華を極めたソロモンなんぞとは、比べ物にならないほど、あなたたちの生命は尊いのだとして。主イエスの慈しみがここにはあります。この生命への立ち帰りの言葉が、「思い悩むな」ということなのです。
 この「思い悩む」という言葉の意味合いを受けて、わたしたちはもう一度自分たちの負わされている「思い悩み」と対峙することが可能とされるのです。かつての「思い悩み」から今の「思い悩み」に向かって位置をずらし、方向転換することで、見えてくる景色や状況は、すでに変えられているのです。今の課題・現実に対して溺れてしまい、心が悲鳴を上げるような生き方に陥るのか、心の向きを変えて軽やかに生きるのか?主イエスはカラスと雑草を指し示しながら、今を生きる知恵をわたしたちに向かって問いかけているのです。

2019年1月 6日 (日)

コリントの信徒への手紙一 12章4~11節 「教会は有機的な共同体」  横田幸子

 人間の体が多くの部分から成っており、一つの部分が苦しめば他の部分も苦しむ。一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が喜ぶ。このような有機的なつながりによって成り立っているわたしたちの「体」は、「主の体なる教会」と言われてきた教会を「説明」するのにふさわしい。
 教会に集まってくる人々は、それぞれの個性、あるいは個人的事情を持っている。それらの個々の違いを、神から与えられた「賜物」として捉える。最初はそれぞれの「違い」が内紛を起こしたりするけれど、やがて、それが「豊かさ」に変えられていくのが教会なのである。一方に苦しみを抱えている人がいれば、他方に苦しみなど持ち合わせていない人々がいるところで、いつの間にか相方が自分にないものを理解し合うというようになるということがある。自分に欠けているものに気付かされていく。そんな「違いによる豊かさ」をパウロは積極的に「神からの賜物」とみて、「キリストの体なる教会」の内実が育てられていくのだと述べている。素晴らしきかな有機的共同体、ではありませんか。

ヨハネによる福音書 12章20~26節 「一粒の麦」

 主イエスは自らをもうすぐ十字架で殺されていく麦だと言います。麦が死ぬとは、土に撒かれた麦から根や芽が出て茎が育ち、変容を遂げながら成長し、やがては新しい麦の実りをもたらすという<いのち>を譬えているのでしょう。麦は粒の麦自体としては死ぬのだけれど、新しい<いのち>へと変えられていくという復活の<いのち>を思い起こさせるように促しているのです。自らがそのような死を死ぬことにより、勝利として<いのち>をもたらすとの宣言です。
 ここには、十字架上の死によって、わたしたちを神に対する根本的な罪の状態から買い戻した行為が語られています。主イエスの死の出来事は、贖いの力により「多くの実を結ぶ」として、わたしたちに告げられています。
 今、わたしたちが生かされており、この場にいることは、麦としての主イエスの死を根拠としています。「多くの実を結ぶ」ことの実現として、今わたしたち一人ひとりが生かされており、教会があることは、この事実によって支えられているからです。
 この根拠のゆえに、新しくわたしたちの主イエスに倣う麦としての歩みが示されるのです。25節以下の指示を単純に読むと、戸惑います。自分の命を否定し、憎むことが良しとされているからです。しかし、ここには人間が自分の<いのち>に対して我儘放題に振る舞っていることへの戒めがあるように思われます。<いのち>に関する人間の万能感という思い上がりを越えて、神から来るという信頼に立ち返ることが求められているのです。ここから初めて自分が確認され、同時に他者に向かいあえる存在へと形作られていくことが語られているのです。
 この箇所を本田哲郎神父は次のように「意訳」しています。【自分自身に執着する者は自分を滅ぼし、この世にからめ取られた自分自身をにくむ者は永遠のいのちに向けて自分を守りとおすのだ。わたしに協力しようという者はだれであれ、わたしについて来ればいい。わたしが立っているところに、わたしに協力する者も共に立つものだ。わたしに協力しようという者はだれであれ、父はその人をとうとばれる。】と。なるほど、です。一粒の麦としての主イエスは、わたしたちの死いのちへの道として整え、備えてくださるのです。それゆえ、今度はわたしたちが他者に仕えつつ「多くの実を結」び、自分自身に執着するエゴイズムとこの世にからめ取られてしまっている現実から、いのちに向かって自由にされていく道へと導かれていると、今日の聖書は語りかけているのです。

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