ヨハネによる福音書 12章20~26節 「一粒の麦」
主イエスは自らをもうすぐ十字架で殺されていく麦だと言います。麦が死ぬとは、土に撒かれた麦から根や芽が出て茎が育ち、変容を遂げながら成長し、やがては新しい麦の実りをもたらすという<いのち>を譬えているのでしょう。麦は粒の麦自体としては死ぬのだけれど、新しい<いのち>へと変えられていくという復活の<いのち>を思い起こさせるように促しているのです。自らがそのような死を死ぬことにより、勝利として<いのち>をもたらすとの宣言です。
ここには、十字架上の死によって、わたしたちを神に対する根本的な罪の状態から買い戻した行為が語られています。主イエスの死の出来事は、贖いの力により「多くの実を結ぶ」として、わたしたちに告げられています。
今、わたしたちが生かされており、この場にいることは、麦としての主イエスの死を根拠としています。「多くの実を結ぶ」ことの実現として、今わたしたち一人ひとりが生かされており、教会があることは、この事実によって支えられているからです。
この根拠のゆえに、新しくわたしたちの主イエスに倣う麦としての歩みが示されるのです。25節以下の指示を単純に読むと、戸惑います。自分の命を否定し、憎むことが良しとされているからです。しかし、ここには人間が自分の<いのち>に対して我儘放題に振る舞っていることへの戒めがあるように思われます。<いのち>に関する人間の万能感という思い上がりを越えて、神から来るという信頼に立ち返ることが求められているのです。ここから初めて自分が確認され、同時に他者に向かいあえる存在へと形作られていくことが語られているのです。
この箇所を本田哲郎神父は次のように「意訳」しています。【自分自身に執着する者は自分を滅ぼし、この世にからめ取られた自分自身をにくむ者は永遠のいのちに向けて自分を守りとおすのだ。わたしに協力しようという者はだれであれ、わたしについて来ればいい。わたしが立っているところに、わたしに協力する者も共に立つものだ。わたしに協力しようという者はだれであれ、父はその人をとうとばれる。】と。なるほど、です。一粒の麦としての主イエスは、わたしたちの死いのちへの道として整え、備えてくださるのです。それゆえ、今度はわたしたちが他者に仕えつつ「多くの実を結」び、自分自身に執着するエゴイズムとこの世にからめ取られてしまっている現実から、いのちに向かって自由にされていく道へと導かれていると、今日の聖書は語りかけているのです。
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