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2018年12月

2018年12月24日 (月)

ルカによる福音書 2章1~20節 「地には平和」

 主イエスの生まれた時代には羊飼い、は脇に追いやられた存在でした。平穏な日々を暮らしている人々から、厄介者扱いされており、野原においてだけではなくて、社会的な意味においても孤独と孤立を強いられていたのです。この羊飼いにこそ、最初のクリスマスの喜びが告げられたのです。
 わたしたちは、生きていくための場所が必要です。今、自分がここにいるのだという実感がなければなりません。それは、他者との関係の中で感じられるものです。一人で存在するのではなく、誰かと一緒でなければ、生きていくことはできません。けれども時々、見捨てられ、ひとりぼっちになってしまったように感じて、悲しくなることがあります。真っ暗闇に一人でいるような寂しさ。孤独とは、何よりも耐え難いものかもしれません。しかし、そういう暗闇の底にまで主イエスは、わたしたちを探しに来てくださるのです。寂しい思いや悲しい思いをしている人の友だちとなり、仲間となるために、それを証明するために、主イエスは来てくださったのです。絶対に孤独にさせないと。
 主イエスの誕生は、羊飼いのような人たちのところに、決して裏切ることのない、そもそも裏切りなどを知らない友として、仲間として来てくださった、神が人となった事実。ここにクリスマスがあるのです。
 「地には平和」が事実として起こされていくのだと、クリスマスの出来事はわたしたちに教えているのです。誰一人、ひとりぼっちであってはならないのです。「地には平和」という出来事が示された羊飼いたちは、幼子イエスとの出会いの後で「羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。」とあります。ここに寝かされている幼子が、自分たちの友として、仲間として、今ここにいることによって解かれた孤独と孤立から自由にされていく道が示されたのでしょう。人々に知らせた、つまり人々の中へ、恐れることなく入っていったのです。かつての人の目を避け、恐れ、怯えていた自分たちから、自由へと招かれていったのでしょう。 
 「地には平和」という言葉は、人間関係のありようを開いていくのです。確かに、わたしたちは人間としての限界をもっていますから、友と喧嘩別れしたり、疎遠になったり、あるいは裏切ったりしまうこともあるかもしれません。しかし、それでも友の広がりによって「地には平和」のイメージを失うことはありません。今日、わたしたちが迎えているクリスマスの幼子主イエス・キリストが、決して裏切ることのない友として仲間として来られている、という事実に支えられているからです。

2018年12月 9日 (日)

ルカによる福音書 4章14~21節 「解放への招き」

 ルカによる福音書で読まれたとされるイザヤ書の言葉として伝えられた言葉は、神であり同時に人である主イエスの活動から十字架と復活へと歩まれる方向性を先取りしています。「貧しい人に福音を告げ知らせる」「捕らわれている人に解放を」「目の見えない人に視力の回復を告げ」「圧迫されている人を自由にし」とあるように、当時の社会において弱りを強いられ、差別され、貶められていた人たちをこそ、良き音信によって包み込むものでした。それが「主の恵みの年を告げるためである」と言われる<今>という時に満ち満ちているのだというのです。読み終えて係に巻物を返した時、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られたのは、かつての旧約の約束が自らの存在の<今>という時において成就していることの主イエスご自身による自らのありようの宣言です。この<今>という時こそが、解放をもたらすのだと語るのです。
 この満ち満ちた<今>を受け入れることは、パウロによればコリントの信徒への手紙二6:1-2の証言と共鳴してきます。【わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。】
 この<今>についてルカ4:18-19は田川建三訳で確認できます。【主の霊が私の上にある。主が私に油注ぎ給うたからだ。貧しい者たちに福音を伝えるために、私を遣わし給うたのだ。囚われた者たちに解放を、また盲人に見えるようになることを告知するため、潰された者たちを解放して送り出すため、主に受け入れられる年を告知するためである。】
 主イエス・キリストは、この世において具体的に弱っている人たちこそに向かいあい、寄り添い、共に生きてくださる方であるのです。そして、自らが旧約の預言の約束の成就としての神なのであることを語りかけてくださり、現代の読み手であるわたしたちの<今>に介入するのです。
 わたしたちのクリスマスの主イエス・キリストは、「歩み寄り、寄り添い、共にいてくださる」ことによって神が人となってくださるのです。主イエス・キリストの誕生を迎える備えの時を過ごす<今>こそ、改めて神が人となるという大いなる恵みを事実として受け止め、わたしたちは今、何から解放されなければならないのか。思い巡らし、深く噛みしめましょう。主イエスの思いに応えるべく歩みつつ、この世における構造悪に抗い、解放への招きに応えていきましょう。

2018年12月 2日 (日)

ルカによる福音書 21章25~36節 「イエスは来てくださる」

 「終末論」は簡単に言うと、現在は未完成・不完全で、この世というのは神の国がやってくることによって完成するはずだという、希望に基づく積極的なものの考え方です。いつか完全な神の国が来るのだから、そこに向かって胸を張って生きていこうというのです。この「終末論」とは、世の終わりを見据えながら<今>を確実に生きていこうという信仰的な態度だと思います。
 これが「いつも目を覚まして祈りなさい」という36節の言葉で示されています。自分のすぐ傍にいて寄り添ってくださるところの神がそこにはいるので、神の呼びかけへの応答としてわたしたちは祈ることができるのです。祈りの中で、困難な世界にあって自分と自分の身近な関係性の中で落ち着きを取り戻しながら、心を騒がせないようにしていようということです。その根拠が32~33節です「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」。確かにこの世というものはいつか終わります。いつなのかは分からない。しかし「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と主イエスは言われるのです。言葉は、意味的に言うと事を起こしていく、事を為していくイメージによって支えられています。そのような力を持っているのです。たとえば天地創造物語で神が「光あれ」と言えば、光があったように。事を為しいていく言葉として「わたしの言葉は決して滅びない」の意味合いを考えると「わたしの言葉」とはイエス・キリストご自身を表わしているということです。来るべき日に雲に乗ってやって来られる来臨のイエス・キリストは永遠だからです。ここに希望をつなぎながら、<今>「いつも目を覚まして祈りなさい」を生きることです。いつ世の終わりが来ても大丈夫なように、つまり「人の子の前に立つことができるように」との備えとして過ごすのです。注意深くいること、落ち着いていること。わたしたちは、この世の状況に対して様々な風潮・流行などによって自分の考え方や態度や思想性などが時代の中で流されてしまいがちです。しかし、右に倣えという時代の中にあって、「本当にそうなのか」という問いをもちながら自己検証して祈り、落ち着いているあり方こそがキリスト者としてアドベントを過ごすという態度ではないでしょうか。
 わたしたちが祈ろうとする前に、すでに身構えてくださり、いやすでに聞き届けてくださる前に呼びかけてくださっている。その方に対して自らの思いのたけを祈りとして訴えかけ続けていく、その中においてわたしたちはクリスマスという出来事を静かな喜びと平安というものが与えられるに違いないので、祈りつつ歩んでいきましょう。

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