« 2018年10月 | トップページ | 2018年12月 »

2018年11月

2018年11月25日 (日)

申命記 26章5~10節a 「収穫感謝のこころ」

 申命記26章で語られているのは、イスラエルの救いの歴史の告白です。人間的主観ではなく、抑圧からの解放である出エジプトという歴史的な出来事を、今のこととして再確認し、神への信仰を共同性における告白です。
 収穫の感謝としてのささげものを携えつつ語られているのは、農民による出エジプトと土地授与についての感謝です。イスラエルの歴史にとって出エジプトの重要性が前提とされています。エジプトにおいてイスラエルの民は奴隷として過酷な日々が強いられたことが語られ、そこからの解放の出来事としての、いわゆる「出エジプト」の出来事の信仰的な意義が重要になってきます(26:5b-9)。イスラエルは自分たちの神に向かって、呻き叫び、助けを求めていました。神は聴いていてくださる、そう信じていたのです。
 出エジプトの神は、叫びに対して答える神として存在し、働いてくださるのです。生活に困窮し、苦しんでいる人に向かって、イスラエルの神は身を乗り出して<いのち>のつながりを求めつつ、歩み寄ってくださるのです。この神と民との間に呼応する関係性を創出することで意味を与えるのです。
 イスラエルの呻きや叫びを聴き届け、出エジプトという歴史的な救いをもたらした神によって与えられた、新しい祝福の実りである収穫物をささげる、収穫感謝の原型がここにはあります。この感謝の原型を踏まえることによって、収穫感謝がただ単に収穫の時期になり初物をささげたという事態を越えて、救いに対する感謝として収穫感謝を捉え直すことになっているのです。閉じられた収穫感謝なのではなくて、収穫感謝を「共に」分ち合う方向へと導いていることを読み取れると思われるのです(26:11-15参照)。
 ここでは、ささげる農民に留まらない関係性を窺い知ることができます。収穫を祝うことが農民だけに留まらず、「レビ人、寄留者、孤児、寡婦」という広がりにおいて捉えられているのです。申命記26章における収穫感謝の方向性は、より弱い立場の人たちとの分かち合いの祝いとして理解されているのです。聖書の証言するイスラエルの神は、イエス・キリストの神でもあります。「レビ人、寄留者、孤児、寡婦」と申命記で言われる立場の弱い人々をこそ尊び、大切にすること。<いのち>のつながりを求めて祈りつつ歩んでいくこと、ここにこそわたしたちが祝う「収穫感謝のこころ」があるのではないでしょうか。分かち合っていくことは、より強い立場からより弱い立場への施しではありません。この点に関して自らを律していたいものです。

2018年11月18日 (日)

マルコによる福音書 14章32~42節 「祈るイエスの姿を」

 わたしたちは、深刻な課題、恐れ、不安などのただ中で、もし神が存在しているならわたしの今を救い上げてほしい、助けてほしいと願い、祈ります。けれども、わたしたちが祈る前に、主イエスご自身が祈っていてくださるのです。この主イエスの姿に導かれて、わたしたちはわたしたちそれぞれに与えられた課題に正面から向かいつつ祈るのです。整えられた美しい言葉である必要はありません。たどたどしく、ぶざまであって構わないのです。ここにいるイエス・キリストの招きの確かさに、そして招きの真実に信頼して、正直に自らを曝け出すようにして祈ればいいのです。神の懐には限りがありません。すべての祈りは、つぶやきや心の奥にしまい込んでいる一つひとつの祈りは、すべて聴かれているのです。大丈夫です。主イエスの名によって祈れば聴かれます。
 そして、祈りは祈り続けることによって深められていき、展開し、新しい状況の予感を生きることができるはずです。ゲッセマネの園での主イエスの祈りの言葉を思い起こしましょう。主イエスは「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」と祈ります。要するに「杯」に象徴される苦難と死から逃れたいという祈りです。命乞いと言っても言い過ぎではありません。しかし、これが転じていくのです。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と。祈りによって示される道、方向性を神に委ねていくことによって新しい事態が拓かれていく可能性があるこというのです。わたしたちが「主の御名によって」祈ることが赦されているのは、このような祈り主イエスによってなのです。
 神ご自身の招きの言葉によって、わたしたちの祈りが引き出され、導かれていく時には、神ご自身の思いがわたしたちに表れることへの信頼として読まれるべきです。先行する神の言葉に対する応答としての祈りをないがしろにするなら、神は神ではありません。寄り添う神が人となった主イエスがキリストとして祈る姿を共に、この場に共にいてくださるのです。共にいてわたしたちの呻きをも担っていてくださるのです。パウロは、この事情について次のように述べました。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26)
 主イエス・キリストは聖霊として、この場に臨んでいてくださるので、わたしたちは今日も主イエスの御名によって祈ることが赦されていることを感謝しつつ、ご一緒に祈りましょう。

2018年11月11日 (日)

サムエル記上 3章15~18節 「神さまに聴こう」

 祭司エリのもとで修業中のサムエルが寝ていると、ある晩呼びかける声が聞こえてきました。エリだろうと思い駆けつけますが、違っていたのです。三度目にエリは、サムエルを呼んでいるのは神であることに気が付きます。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」と言われ、サムエルが戻って寝ていると声がしました。「サムエルよ。」今度は答えます。「どうぞお話しください。僕は聞いております」。ここで神がお話になったのは、エリの子どもたちがあまりにも悪いことを続けているのでエリの一族を滅ぼすという恐ろしいお告げでした。神が教えてくださったことであっても、サムエルにとって自分が仕えているエリに、あなたの一族が滅びると伝えなくてはならないことはどんなに辛かったことでしょう。迷いがあったことは想像できます。しかし、神からのお告げは、たとえ都合が悪いことや嫌なこと辛いことや悲しいことでも話さなければならないことがあるのです。神の言葉を聴くとは、このように厳しい一面があるのです。エリは信仰深い人であったので受け止めることができました。
 祈りと言うと普通は、神に助けてほしいことなどの自分の方から神に向かっての言葉なのだと考えがちです。これらは祈りにとって大切なことですが、第一のこととは少し違います。祈りにとって第一のことは、神に聴くことです。サムエルがエリに教えられた「主よ、お話しください。僕は聞いております」ということから祈りは始まるのです。
 神は、わたしたちに向かっても話してくださっています。けれども、わたしたちは自分勝手なところがあるので自分のことだけを考えてしまうことが多いのです。祈りとは、まず神に向かって「聴いています」と心を静め、落ち着き、それから導かれて、語りかける神にお応えするようにして言葉が導き出されていくことです。
 祈りに導かれていく中で明らかにされた神の思いを伝えていくことが大切なのです。サムエルの祈りを現代に当てはめると、神の正義は実現していくのだから、この世の悪に向かって話さなければならないことがある、都合が悪いことや嫌なこと辛いことや悲しいことでも話さなければならないことはあるということです。具体的に何を思い浮かべるでしょうか。語るべきことに口をつぐんでしまうのであれば、それは祈りとして不完全なものとなってしまいます。
 サムエルのように神の導きのもとで「主よ、お話しください。僕は聞いております」と姿勢を正していく中で、一緒に「神さまに聴こう」という願いを心で合わせていきましょう。

« 2018年10月 | トップページ | 2018年12月 »

無料ブログはココログ