申命記 26章5~10節a 「収穫感謝のこころ」
申命記26章で語られているのは、イスラエルの救いの歴史の告白です。人間的主観ではなく、抑圧からの解放である出エジプトという歴史的な出来事を、今のこととして再確認し、神への信仰を共同性における告白です。
収穫の感謝としてのささげものを携えつつ語られているのは、農民による出エジプトと土地授与についての感謝です。イスラエルの歴史にとって出エジプトの重要性が前提とされています。エジプトにおいてイスラエルの民は奴隷として過酷な日々が強いられたことが語られ、そこからの解放の出来事としての、いわゆる「出エジプト」の出来事の信仰的な意義が重要になってきます(26:5b-9)。イスラエルは自分たちの神に向かって、呻き叫び、助けを求めていました。神は聴いていてくださる、そう信じていたのです。
出エジプトの神は、叫びに対して答える神として存在し、働いてくださるのです。生活に困窮し、苦しんでいる人に向かって、イスラエルの神は身を乗り出して<いのち>のつながりを求めつつ、歩み寄ってくださるのです。この神と民との間に呼応する関係性を創出することで意味を与えるのです。
イスラエルの呻きや叫びを聴き届け、出エジプトという歴史的な救いをもたらした神によって与えられた、新しい祝福の実りである収穫物をささげる、収穫感謝の原型がここにはあります。この感謝の原型を踏まえることによって、収穫感謝がただ単に収穫の時期になり初物をささげたという事態を越えて、救いに対する感謝として収穫感謝を捉え直すことになっているのです。閉じられた収穫感謝なのではなくて、収穫感謝を「共に」分ち合う方向へと導いていることを読み取れると思われるのです(26:11-15参照)。
ここでは、ささげる農民に留まらない関係性を窺い知ることができます。収穫を祝うことが農民だけに留まらず、「レビ人、寄留者、孤児、寡婦」という広がりにおいて捉えられているのです。申命記26章における収穫感謝の方向性は、より弱い立場の人たちとの分かち合いの祝いとして理解されているのです。聖書の証言するイスラエルの神は、イエス・キリストの神でもあります。「レビ人、寄留者、孤児、寡婦」と申命記で言われる立場の弱い人々をこそ尊び、大切にすること。<いのち>のつながりを求めて祈りつつ歩んでいくこと、ここにこそわたしたちが祝う「収穫感謝のこころ」があるのではないでしょうか。分かち合っていくことは、より強い立場からより弱い立場への施しではありません。この点に関して自らを律していたいものです。
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