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2018年11月18日 (日)

マルコによる福音書 14章32~42節 「祈るイエスの姿を」

 わたしたちは、深刻な課題、恐れ、不安などのただ中で、もし神が存在しているならわたしの今を救い上げてほしい、助けてほしいと願い、祈ります。けれども、わたしたちが祈る前に、主イエスご自身が祈っていてくださるのです。この主イエスの姿に導かれて、わたしたちはわたしたちそれぞれに与えられた課題に正面から向かいつつ祈るのです。整えられた美しい言葉である必要はありません。たどたどしく、ぶざまであって構わないのです。ここにいるイエス・キリストの招きの確かさに、そして招きの真実に信頼して、正直に自らを曝け出すようにして祈ればいいのです。神の懐には限りがありません。すべての祈りは、つぶやきや心の奥にしまい込んでいる一つひとつの祈りは、すべて聴かれているのです。大丈夫です。主イエスの名によって祈れば聴かれます。
 そして、祈りは祈り続けることによって深められていき、展開し、新しい状況の予感を生きることができるはずです。ゲッセマネの園での主イエスの祈りの言葉を思い起こしましょう。主イエスは「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」と祈ります。要するに「杯」に象徴される苦難と死から逃れたいという祈りです。命乞いと言っても言い過ぎではありません。しかし、これが転じていくのです。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と。祈りによって示される道、方向性を神に委ねていくことによって新しい事態が拓かれていく可能性があるこというのです。わたしたちが「主の御名によって」祈ることが赦されているのは、このような祈り主イエスによってなのです。
 神ご自身の招きの言葉によって、わたしたちの祈りが引き出され、導かれていく時には、神ご自身の思いがわたしたちに表れることへの信頼として読まれるべきです。先行する神の言葉に対する応答としての祈りをないがしろにするなら、神は神ではありません。寄り添う神が人となった主イエスがキリストとして祈る姿を共に、この場に共にいてくださるのです。共にいてわたしたちの呻きをも担っていてくださるのです。パウロは、この事情について次のように述べました。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26)
 主イエス・キリストは聖霊として、この場に臨んでいてくださるので、わたしたちは今日も主イエスの御名によって祈ることが赦されていることを感謝しつつ、ご一緒に祈りましょう。

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