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2018年10月

2018年10月28日 (日)

ルカによる福音書 12章32節 「さあ、つながろう」(キリスト教教育週間)

  ~子どもとおとなの合同礼拝~
 主イエスは、誰もが一切の条件なしに神から喜ばれていて愛されていることを心に刻みましょう、と呼びかけます。その一人ひとりの<いのち>に向かって「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」と言われるのです。
 今日のわたしたちの礼拝は、ブラジルのオリンダ市の貧しい地域にあるアルト・ダ・ボンダージ・メソジスト教会の働き、そしてそこに集まっている若い人たちの今生きている姿を受け止めることでした。
 この教会では礼拝を中心にしながらギター教室と空手教室など色々なことをしているようです。こんな言葉がありました。【ぼくの名前はビクトール、17歳です。ギターを習ってから、自分の家族と仲良く暮らせるようになりました。教室では行動に責任を持つことや、社会の良い市民になるように教えてくれます。】この少年の言葉は本当だと思います。たぶん、歌も歌うのでしょう。悲しい時、嬉しい時、辛い時、などギターを弾きながら歌を誰かと一緒に歌えば、心のつながりが自ずと生まれてくるものなのです。これは賛美歌に限ったことではありません。歌、音楽には力があるのです。
 広い意味での「教育」によって「文化」~人間が人間らしく生きるための価値観~を作り出していくことができるはずなのです。貧しさから脱出する一歩を踏み出せます。教会が教育や文化に積極的に関わる時には、アルト教会の目的に気づかされるものがあります。このようにありました。【教育プロジェクトを通してアルト教会が目指しているのは、「平和の文化を築く」ことです。 新しいことを習い始め、少しずつ上達していく喜びを味わうとき、生徒たちは自分の可能性を発見します。そして友達を自分と同じように尊い存在として認められるようになります。自分自身を大切にし、友達も大切にすること、周りの人たちと良い関係をつくれるようになることが、平和の文化の小さな一歩になるのです。】
 主イエスは、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)と語りかけてくださる方であり、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(ルカ24:36)とあるように、わたしたちをイエスさまに向かっていくようにと導いてくださっています。アルト・ダ・ボンダージ・メソジスト教会の働きを応援しながら、お互いに「さあ、つながろう」と語り合えるような世界をみんなで一緒に祈りましょう。

2018年10月21日 (日)

ヨハネによる福音書 10章11~16節、27~30節 「よい羊飼い」

 「わたしは良い羊飼いである。」という言葉の理解を助けるために「出エジプト記」を思い起こししょう。「出エジプト」はイスラエルの信仰の中心の一つとして大きな歴史的出来事です。エジプトでのイスラエルの民の奴隷生活の苦しみからの解放のためにモーセが手にしていたのは羊飼いの杖です。神はモーセを羊飼いとして立て、イスラエルの民を羊として神の導くままに40年という長い時荒れ野の旅する群れとして招いたという出来事であったわけです。この「出エジプト」の旅の中での羊の群れとしてのイスラエルの態度には不平不満と不信仰が満ちていました(詳細は出エジプト記をお読みください)。
 「出エジプト記」の証言を踏まえ、また知り尽くしているからこそ主イエスは「わたしは良い羊飼いである。」と力強く宣言しています。
 この「よい羊飼い」とは、大きく言えば二つのことにまとめられます。一つ目は、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(10:11)です。羊の姿がどのようであっても、一切の条件なしに羊を守り抜くという決意が主イエスには確固としてあるのです。
 二つ目は、一つ目の決意を前提としてですが、理解についてです。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(10:14)にあります。良い羊飼いである主イエスは、羊を一匹残らず、そのすべてをあるがまま、心の奥底で羊の自覚できないところにまで主イエスの思いは届いていくのだということです。だからこそ、その主イエスの思いに気づかされる時には「羊もわたしを知っている」を応答へと導かれていくのです。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」。(10:27)のだとして。
 この招きによって、主イエスの羊であるわたしたちは生かされていくのです。主イエスの招きによって主イエスの道に従っていく希望と勇気が備えられているのです。(10:28-29参照)
 「よい羊飼い」である主イエスの使命は、教会という枠に留まることで満足する方ではありません(10:16)。主イエスの思いと願いは教会という枠には留まらないのです。「この囲いに入っていないほかの羊」とは教会という枠の外です。それを「導く」というのです。だから、教会に招くと狭く理解せず、主イエスの思いを信じる羊たちが、その委託を受けて、今度は羊飼いの役割をそれぞれの課題に応じて担っていくようにとの促しとして読まれるべきです。このつながりを作り出すことへの模索への招きがここには語られているのです。

2018年10月14日 (日)

マルコによる福音書 6章30~44節 「深く憐れんでくださる方」下薗昌彦 神学生(農村伝道神学校)

 本日は42節「すべての人が食べて満腹した」と語られる、《奇跡》について、聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。この、不思議な、そして幸福な《奇跡》は、どのようにして起こったのでしょうか。  すべては34節「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」とある、イエスが、目の前にいる大勢の群衆を、深く憐れんでくださったことから、始まるのです。31節にもあるように、イエスも初めは「出入りする人が多くて」食事も取れないほどの忙しさの中、弟子たちと一緒に「人里離れた所」へ行って、休もうとされていたのかもしれません。けれども目的地に着いたとき、イエスたちの様子に気づき、方々の町から一斉に駆けつけ、待ち構えていた人々。目の前にいる、必死になってイエスを求めて押し寄せてきた人々を、放って置くことはできなかったのです。  99匹の羊を危険な山に残してでも、迷い出た一匹を探しに行くイエスには、押し寄せた群衆を、固まりと見ることなどできず、一人ひとり別々の、かけがえのない人間にしか、見えなかったのです。だからこそ、どこにも行き場がなくて、イエスと弟子たちを必死に追いかけてきた人々を目の前にしたとき、イエスは、「深く憐れみ、いろいろと教え始め」(34節)てくれたのです。  では、「深く憐れむ」とは、どういうことでしょう。原典のギリシア語では《スプランクニゾーマイ》という言葉が使われています。この言葉について、新共同訳聖書を含め、七種類の日本語訳にあたってみましたところ、佐藤研氏は「腸(はらわた)がちぎれる想いにかられ」と訳され、本田哲郎氏は「はらわたをつき動かされ」と訳されています。どちらにも使われている「腸(はらわた)」という言葉を広辞苑で調べてみると「①大腸②臓腑・内蔵」とありますから、つまり、身体の内側、もっと言えば、身体そのものが「反応」しているのです。見捨てることができない! ということなのです。  イエスは「これ以上は難しい」などという限界を設けていません。「助けてください!」「治してください!」と一心に向かって来る、一人ひとりの「弱く、小さくされた人々」に真正面から向き合い、ただ、ひたすらに、祈り、行っているだけなのです。イエスの、一人ひとり対する、深い憐れみこそが、42節に記された「すべての人が食べて満腹した」と語られる、奇跡を起こす力となったのです。  この奇跡は、もちろんただのお腹いっぱい食べられたという話ではありません。まるでつけ加えられたかのように、五千人という人数についての記述がありますが、食べられた数が重要だったのではなく、「すべての人が食べて満腹した」と言うことこそが重要なのです。  そして最後には、私たちの誰も予想できなかったように、パン屑と魚の残りで、十二の背負い籠がいっぱいになったのです。このことは、私たちに「神の恵みは尽きることがなく、すべての人にいきわたり、限界や境界のような境目はないのだ」ということを教えてくれます。なぜなら、その恵みを与えてくださる、「神の深い憐れみには、限りがない」のです。

2018年10月 7日 (日)

コリントの信徒への手紙一 11章17~22節 「聖餐の示す世界観」

 「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」(Ⅰコリント11:27-29)。この言葉は伝統的には洗礼と結びつけて聖餐に与る資格として理解されてきましたが、この手紙の文脈では違うことが分かるはずです。金持ちや裕福な人たちが教会の食卓を食い散らかすので、あとから遅れて来た貧しい人が与れない状況を「ふさわしくない」というのです。
 聖餐は、主イエスの体と血潮に与ることで、十字架上の死によって贖われ、復活の力によって新しく生かされていくという「霊的な」食卓であるという意味は、もちろん前提です。しかし、十字架と復活という教えに収斂させてしまうのではなく、広がりにおいて捉えかえすべきだろうと思われます。理解のためには、何故主イエスは十字架へと歩まねばならなかったのかという問いが重要なのです。
 主イエスはあえて「ふさわしくない」食卓を囲んだからこそ、ファリサイ派律法学者から非難されたのです(マルコ2:13-17参照)。ユダヤ教の正しい人たちからすれば、「罪人」と呼ばれる人、徴税人などは神によって招かれた食卓から排除されて当然という理解があったのです。それに対して主イエスは神の招きに枠とか資格は関係ないと示した、その枠と資格を神の招きにおいて無化していったということです。「ふさわしさ」のなさ、無資格であることに対して、あえて主イエスの神は招いておられるのです。招きにおいては、排除があってはならないのだとしているのです。
 聖餐によって示されている世界観は、すべての人が神の恵みに与り、神によって招かれているのだから、誰もが飢え渇くことなく飲み食いする主イエスの願いです。主イエスがどのような願いをもって人間に差し向かい、招き恵みを与え、そしてそこで人々の交わりとしてのいのちのつながりが広がったか。この世界観へ向かう一つの象徴としてパンと杯に与ることが聖餐なのではないでしょうか。
 今ここで、わたしたちが受けることによってその人たちといのちにおいてつながっていくことへの招きの象徴として、主の食卓はあるのです。そのような意味でわたしたちが与るこの食卓は、教会という枠に閉じられたものではなくて、主イエスが目指したところの神の国につながっていく矢印として示している世界観なのです。

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