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2018年10月14日 (日)

マルコによる福音書 6章30~44節 「深く憐れんでくださる方」下薗昌彦 神学生(農村伝道神学校)

 本日は42節「すべての人が食べて満腹した」と語られる、《奇跡》について、聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。この、不思議な、そして幸福な《奇跡》は、どのようにして起こったのでしょうか。  すべては34節「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」とある、イエスが、目の前にいる大勢の群衆を、深く憐れんでくださったことから、始まるのです。31節にもあるように、イエスも初めは「出入りする人が多くて」食事も取れないほどの忙しさの中、弟子たちと一緒に「人里離れた所」へ行って、休もうとされていたのかもしれません。けれども目的地に着いたとき、イエスたちの様子に気づき、方々の町から一斉に駆けつけ、待ち構えていた人々。目の前にいる、必死になってイエスを求めて押し寄せてきた人々を、放って置くことはできなかったのです。  99匹の羊を危険な山に残してでも、迷い出た一匹を探しに行くイエスには、押し寄せた群衆を、固まりと見ることなどできず、一人ひとり別々の、かけがえのない人間にしか、見えなかったのです。だからこそ、どこにも行き場がなくて、イエスと弟子たちを必死に追いかけてきた人々を目の前にしたとき、イエスは、「深く憐れみ、いろいろと教え始め」(34節)てくれたのです。  では、「深く憐れむ」とは、どういうことでしょう。原典のギリシア語では《スプランクニゾーマイ》という言葉が使われています。この言葉について、新共同訳聖書を含め、七種類の日本語訳にあたってみましたところ、佐藤研氏は「腸(はらわた)がちぎれる想いにかられ」と訳され、本田哲郎氏は「はらわたをつき動かされ」と訳されています。どちらにも使われている「腸(はらわた)」という言葉を広辞苑で調べてみると「①大腸②臓腑・内蔵」とありますから、つまり、身体の内側、もっと言えば、身体そのものが「反応」しているのです。見捨てることができない! ということなのです。  イエスは「これ以上は難しい」などという限界を設けていません。「助けてください!」「治してください!」と一心に向かって来る、一人ひとりの「弱く、小さくされた人々」に真正面から向き合い、ただ、ひたすらに、祈り、行っているだけなのです。イエスの、一人ひとり対する、深い憐れみこそが、42節に記された「すべての人が食べて満腹した」と語られる、奇跡を起こす力となったのです。  この奇跡は、もちろんただのお腹いっぱい食べられたという話ではありません。まるでつけ加えられたかのように、五千人という人数についての記述がありますが、食べられた数が重要だったのではなく、「すべての人が食べて満腹した」と言うことこそが重要なのです。  そして最後には、私たちの誰も予想できなかったように、パン屑と魚の残りで、十二の背負い籠がいっぱいになったのです。このことは、私たちに「神の恵みは尽きることがなく、すべての人にいきわたり、限界や境界のような境目はないのだ」ということを教えてくれます。なぜなら、その恵みを与えてくださる、「神の深い憐れみには、限りがない」のです。

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