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2018年10月 7日 (日)

コリントの信徒への手紙一 11章17~22節 「聖餐の示す世界観」

 「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」(Ⅰコリント11:27-29)。この言葉は伝統的には洗礼と結びつけて聖餐に与る資格として理解されてきましたが、この手紙の文脈では違うことが分かるはずです。金持ちや裕福な人たちが教会の食卓を食い散らかすので、あとから遅れて来た貧しい人が与れない状況を「ふさわしくない」というのです。
 聖餐は、主イエスの体と血潮に与ることで、十字架上の死によって贖われ、復活の力によって新しく生かされていくという「霊的な」食卓であるという意味は、もちろん前提です。しかし、十字架と復活という教えに収斂させてしまうのではなく、広がりにおいて捉えかえすべきだろうと思われます。理解のためには、何故主イエスは十字架へと歩まねばならなかったのかという問いが重要なのです。
 主イエスはあえて「ふさわしくない」食卓を囲んだからこそ、ファリサイ派律法学者から非難されたのです(マルコ2:13-17参照)。ユダヤ教の正しい人たちからすれば、「罪人」と呼ばれる人、徴税人などは神によって招かれた食卓から排除されて当然という理解があったのです。それに対して主イエスは神の招きに枠とか資格は関係ないと示した、その枠と資格を神の招きにおいて無化していったということです。「ふさわしさ」のなさ、無資格であることに対して、あえて主イエスの神は招いておられるのです。招きにおいては、排除があってはならないのだとしているのです。
 聖餐によって示されている世界観は、すべての人が神の恵みに与り、神によって招かれているのだから、誰もが飢え渇くことなく飲み食いする主イエスの願いです。主イエスがどのような願いをもって人間に差し向かい、招き恵みを与え、そしてそこで人々の交わりとしてのいのちのつながりが広がったか。この世界観へ向かう一つの象徴としてパンと杯に与ることが聖餐なのではないでしょうか。
 今ここで、わたしたちが受けることによってその人たちといのちにおいてつながっていくことへの招きの象徴として、主の食卓はあるのです。そのような意味でわたしたちが与るこの食卓は、教会という枠に閉じられたものではなくて、主イエスが目指したところの神の国につながっていく矢印として示している世界観なのです。

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