ヨハネによる福音書 10章11~16節、27~30節 「よい羊飼い」
「わたしは良い羊飼いである。」という言葉の理解を助けるために「出エジプト記」を思い起こししょう。「出エジプト」はイスラエルの信仰の中心の一つとして大きな歴史的出来事です。エジプトでのイスラエルの民の奴隷生活の苦しみからの解放のためにモーセが手にしていたのは羊飼いの杖です。神はモーセを羊飼いとして立て、イスラエルの民を羊として神の導くままに40年という長い時荒れ野の旅する群れとして招いたという出来事であったわけです。この「出エジプト」の旅の中での羊の群れとしてのイスラエルの態度には不平不満と不信仰が満ちていました(詳細は出エジプト記をお読みください)。
「出エジプト記」の証言を踏まえ、また知り尽くしているからこそ主イエスは「わたしは良い羊飼いである。」と力強く宣言しています。
この「よい羊飼い」とは、大きく言えば二つのことにまとめられます。一つ目は、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(10:11)です。羊の姿がどのようであっても、一切の条件なしに羊を守り抜くという決意が主イエスには確固としてあるのです。
二つ目は、一つ目の決意を前提としてですが、理解についてです。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(10:14)にあります。良い羊飼いである主イエスは、羊を一匹残らず、そのすべてをあるがまま、心の奥底で羊の自覚できないところにまで主イエスの思いは届いていくのだということです。だからこそ、その主イエスの思いに気づかされる時には「羊もわたしを知っている」を応答へと導かれていくのです。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」。(10:27)のだとして。
この招きによって、主イエスの羊であるわたしたちは生かされていくのです。主イエスの招きによって主イエスの道に従っていく希望と勇気が備えられているのです。(10:28-29参照)
「よい羊飼い」である主イエスの使命は、教会という枠に留まることで満足する方ではありません(10:16)。主イエスの思いと願いは教会という枠には留まらないのです。「この囲いに入っていないほかの羊」とは教会という枠の外です。それを「導く」というのです。だから、教会に招くと狭く理解せず、主イエスの思いを信じる羊たちが、その委託を受けて、今度は羊飼いの役割をそれぞれの課題に応じて担っていくようにとの促しとして読まれるべきです。このつながりを作り出すことへの模索への招きがここには語られているのです。
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