マタイによる福音書 7章7~12節 「求めなさい」
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」は、主イエス・キリストの十字架への歩みにおける祈りの人生の中で語られたことに注意が必要です。
主イエスが、いと小さき者が今あるままで神に喜ばれ、祝福された存在であると説き、代わりの利かない一人ひとりの<いのち>のかけがえのなさを獲得するために闘い抜かれた方であることを心に刻みつつ、今日の聖書の言葉に聴くべきです。悩み苦しみ、病に倒れ、飢え渇き、日ごとの糧もままならず、その日一日を生きていること自体が苦しみの塊であるような人たちに向かって語られた言葉なのです。
「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」という主イエスの言葉は、十字架において実現しました。イエス・キリストの十字架上の死は、人間の根源的な罪を贖いだし、救いをもたらす出来事だからです。そして、主イエスの復活は根源的な死に対する勝利であり、この力に与って生きる自由がもたらされたのです。主イエスに依って切り開かれた自由な世界観に導かれ、より積極的で神の思いに適った仕方で求め、探し、叩き続けていく世界へと招かれているのです。十字架の前夜、ゲッセマネの園で苦しみを祈られた主イエスの「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」という言葉における真実は、「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」という事柄から「受け」「見つけ」「開かれる」世界観へと導くものなのです。
今日の聖書が語りかけるのは、神の守りの中で祈り続ける中でこそ、自分の願いや欲望などを越えて「受け」「見つけ」「開かれる」世界観へと導く主イエス・キリストが生きており、今ここで語り続けていることの証言なのです。当時も今も、主イエスにある人々は祈るべき課題、より困難な課題に直面している事実がある。ここで、人間には簡単には分からないかもしれないけれども、神の側から「よきもの」・「よきこと」が備えられている約束に信頼することができるのだということです。
主イエスに倣うことによって、わたしたちは求め、探し、叩き続けるべきであり、その到着点を自分で決めてから求め、探し、叩き続けるのではないのです。今主イエス・キリストの言葉に信頼すること、ここには生きるべき勇気と安心の源が確実にあるのです。いつでも心の中に主イエス・キリストの言葉「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」を留めつつ歩んでいくところに幸いがあるのです。
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