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2018年9月

2018年9月30日 (日)

マタイによる福音書 7章7~12節 「求めなさい」

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」は、主イエス・キリストの十字架への歩みにおける祈りの人生の中で語られたことに注意が必要です。
 主イエスが、いと小さき者が今あるままで神に喜ばれ、祝福された存在であると説き、代わりの利かない一人ひとりの<いのち>のかけがえのなさを獲得するために闘い抜かれた方であることを心に刻みつつ、今日の聖書の言葉に聴くべきです。悩み苦しみ、病に倒れ、飢え渇き、日ごとの糧もままならず、その日一日を生きていること自体が苦しみの塊であるような人たちに向かって語られた言葉なのです。
 「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」という主イエスの言葉は、十字架において実現しました。イエス・キリストの十字架上の死は、人間の根源的な罪を贖いだし、救いをもたらす出来事だからです。そして、主イエスの復活は根源的な死に対する勝利であり、この力に与って生きる自由がもたらされたのです。主イエスに依って切り開かれた自由な世界観に導かれ、より積極的で神の思いに適った仕方で求め、探し、叩き続けていく世界へと招かれているのです。十字架の前夜、ゲッセマネの園で苦しみを祈られた主イエスの「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」という言葉における真実は、「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」という事柄から「受け」「見つけ」「開かれる」世界観へと導くものなのです。
 今日の聖書が語りかけるのは、神の守りの中で祈り続ける中でこそ、自分の願いや欲望などを越えて「受け」「見つけ」「開かれる」世界観へと導く主イエス・キリストが生きており、今ここで語り続けていることの証言なのです。当時も今も、主イエスにある人々は祈るべき課題、より困難な課題に直面している事実がある。ここで、人間には簡単には分からないかもしれないけれども、神の側から「よきもの」・「よきこと」が備えられている約束に信頼することができるのだということです。
 主イエスに倣うことによって、わたしたちは求め、探し、叩き続けるべきであり、その到着点を自分で決めてから求め、探し、叩き続けるのではないのです。今主イエス・キリストの言葉に信頼すること、ここには生きるべき勇気と安心の源が確実にあるのです。いつでも心の中に主イエス・キリストの言葉「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」を留めつつ歩んでいくところに幸いがあるのです。

2018年9月23日 (日)

ヨハネの手紙一 5章13~21節 「偶像を避けなさい」

 ヨハネによる福音書では、永遠のいのちとは「唯一のまことの神とイエス・キリストとを知ることです」(ヨハネ17:3)とあります。神がわたしたちに向かって抜き差しならない関係で「神は愛です」として絶えず寄り添う方なので、その時々のあなたがたの判断をより相応しく歩むことへの促しがあります。問題になってくるのが、いわゆる「罪」の問題です。ヨハネの手紙一では、パウロ的な単数形、すなわち根源的な意味ではなくて、数えることの出来る罪を問題にしています。
 カトリック教会の中で伝統的に伝えられてきた、神に許され難い「七つの大罪」は、「高慢」「貪欲」「ねたみ」「憤怒」「肉欲」「貪食」「怠惰」とされています。20083月、ローマ教皇庁は新たな七つの大罪を発表しました。「遺伝子改造」「人体実験」「環境汚染」「社会的不公正」「貧困」「過度な裕福さ」「麻薬中毒」です。より具体的・社会的な罪を見いだしています。罪のイメージは、時代により具体的に再解釈されます。これらの罪は、神が判断すべき事柄を人間が判断し実行できるのだという思い上がりに由来します。
 モーセを通して与えられた「十戒」の第一戒と第二戒では、神が神であるという自己証示と偶像礼拝の禁止が語られます。ただ単に人間が造ったものを信仰の対象として拝んではならないのではなく、もっと深いところに偶像の問題はあります。人間の側の意思によって扱えるようなもの一切は、すべて偶像と化するものです。たとえば国家や制度、学問といったものも、偶像化する危険性の大きなものでしょう。偶像というのは、ただ単に形ある信仰対象であるよりも、もっと、人間関係をどのように捉えていくかという象徴であるのです。
 「子たちよ、偶像を避けなさい。」と語るヨハネの手紙一のまとめの言葉は取って付けたように読めるかもしれません。しかし、文脈からすると人間の側からの我儘勝手な罪へと誘うものが偶像であることが分かります。人間が作り出してしまうところの数えられる罪が人間関係の歪みを委ねていくのです。このように、人間のあり方自体を歪めてしまうような関係性、時代の中に蔓延する空気みたいなものが偶像になってはいないかを検証する必要があります。神の望まれる人間関係が破壊されてしまうからです。神の御心に適うあり方、すなわちお互いを喜び合っていく<いのち>の在り方、お互いの存在を無条件に喜びあう道に歩むことが求められているのです。すでにイエス・キリストは「神は愛です」ということにおいて自らを示してくださっているのです。偶像とそれによって導かれる数えることの出来る諸々の罪から逃れつつ、御心に適った道が用意されていることに信頼することへの促しが、ここでは語られているのです。

2018年9月16日 (日)

ルカによる福音書 2章22~35節 「備えられた救いの時に」 :高齢者の日礼拝

 近頃は「癒し」という言葉は、「いやされるー」という言い方で「ほっとする」「かわいい」と同義語のように使われることが多いようです。主イエスの「癒し」は、一人ひとりと向き合い、全存在をかけた、重く深いものです。安息日に癒すことでファリサイ派に殺意を抱かれますし、12年間血が止まらない女性が癒してもらおうとイエスの衣を触った時には、自分から力が出ていくことを感じます。そして、病が癒された人は、生き返ったと言えるほどの人生の転換、生活そのものも癒されるのです。ですから、「かわいい」と交換可能な言葉として使うことにはわたしは違和感をもちますが、幼な子に対して「癒される」という感覚は、分からないでもありません。イエスが癒すとき、そこには、積極的な<いのち>の交流が起こるからです。
 当時のユダヤの習慣では、生後8日目に割礼を受けます。最初の男の子は生まれて40日目に、エルサレム神殿において律法に従って神に献げられる(実際には身代わりとして動物をささげる)ことになっていました。その時に、信仰深いシメオンという高齢者と幼な子イエスとの出会いがあったことをルカによる福音書は証言しています。
【シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」】(2:28-32)
 続いて幼な子がやがて受ける苦しみをも語りますが、この幼子イエスが救い主であることを見ることにより、平安のうちに世を去る道が示された、来るべき祝福を心から受け止める出来事であったと読み取ることができます。
 この幼な子イエスとシメオンとの出会いは、福音書の中に閉じ込められた物語ではありません。神の守りの中で、高齢者が幼な子と出会う時に<いのち>の交わりがあり、ここには祝福があるのだということです。高齢者のいるところに幼な子がいてほしいと願います。そこには、<いのち>の交わりによって今祝福されていることの確実さが示されるからです。
 幼な子と触れる機会のない高齢者もあることでしょう。しかし、思い描くことはできるはずですし、かつて自分が幼な子であった、その自分との出会いを思い出によって確認することで、幼子であった自分と歳を重ねてきた自分との出会いがあるかもしれません。幼な子イエスとの交わりの中で、歳を重ねて来られえたお一人おひとりの今の<いのち>が、イエス・キリストの神に喜ばれ、祝福されていることを信じましょう。

2018年9月 9日 (日)

ヨハネの手紙一 5章1~12節 「イエスから流れ来る<いのち>」

 より困難な状況に自らが置かれてしまっている、そのようなこの世において生かされているところにこそ、キリスト者の本領というものは発揮されるのです。それはキリスト者に最初から備わった力なのではなくて、まずはイエス・キリストは勝利者であるというところから軸足をずらさないことが重要です。キリスト者が自分の力で世に勝つのではありません。イエス・キリストご自身が、その流された血において勝利者である表明です。
 イエス・キリストに信じ従う者たちがこの世に勝利する根拠が6>節以下で述べられています。「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。」(5:6)と。
 この「水と血によって」をどのように解釈するのでしょうか。これは、ヨハネ福音書19:31-35から読むことができます。イエスが息を引き取った後、兵士にわき腹を槍で刺されたところです。「すると、すぐ血と水とが流れ出た。」(19:34後半)。これはヨハネによる福音書にしかない記事です。
 イエスが死をもって流された「血」は、生贄として十字架上で流された血によって罪が赦され、新たないのちへと召されていくことです。
 一方「水」は、エゼキエル書47章1-12節と共鳴するのではないでしょうか。簡単に説明すると、エゼキエルが見た幻というのは、エルサレム神殿の東西南北から「水」が湧き出るというイメージです。実際にはありえないような水量が流れ、流れていったところが非常に豊かなイメージになっていきます。このイメージをさらに進めていくと、エデンの園のイメージになっていきます。つまり、旧約聖書の考えている理想的な世界であるエデンの園、神がこの世界を創造されて、アダムとエバが罪を犯して追い出される前の楽園です。ここにある「水」によってもたらされる豊かなイメージで描かれる世界観です。
 この流れる「水」のイメージをイエスのわき腹から流れた「水」から想起させるようなあり方を霊の注ぎにおいて受けている存在がキリスト者なのであるという発想があるのです。
 贖いの死の象徴であるイエスを根拠にした「血」と<いのち>の「水」、そして両者を統合するようなイメージとしての「霊」の力が、あなたがたに対して抜き差しならない関係で流れ込むようにしてイエスの<いのち>が届けられているということです。ここに立ち返れば5:1-5にあるように、イエス・キリストを信じる者が神によって由来し、そして神を愛しながら神の掟に生きていくことは決して難しいものではないのです。すでにイエスから流れてくる大いなるいのちが注がれてしまっていることに信頼していけば、どのような苦難や不安や悩みや絶望や艱難が襲って来ようとも、平安によって支えられている、すなわち「世に打ち勝つ」者となるのです。このイエスの生涯と十字架に由来する「霊と水と血」の力によって歩んでいく時に、わたしたちはイエス・キリストによって守られ導かれ祝福され、どのような課題に対しても立ち向かう勇気が与えられていくに違いないことを確認することができるのです。

2018年9月 2日 (日)

ヨハネの手紙一 4章7~21節 「神は愛」

 「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」(4:7)とあります。人間の側に根拠をおいている愛ではないからです。つまり、人間の側には愛する能力や才能がそもそもないのです。愛とは「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(4:9)ということです。「神の愛」が肉を伴った、すなわちイエス・キリストがわたしたちと同じ人間としてこの世に来られ、その生涯を歩まれたことが「神の愛」の現れであり具体なのです。
 すべてのものを生かすために神ご自身が、神ご自身であることをやめることなく、人間の真の友となり仲間となるように受肉されたのです。その愛には一切の条件がなく、一切の人間のあらゆる根源的な罪をも含めた存在がただ一度限り全面的に肯定されるのです。ささげものとしてイエス・キリストが十字架に磔られたという出来事によってです。
 わたしたちが心に留めておかなければならない愛の性質というのは「神は愛です」ということです。わたしたちの命も存在も一切の条件なしに神が与えてくださったものであるから、わたしたちにできるのはただ、この借りものである命をこの世において許された年月を神の祝福と守りのもとで過ごすということです。そしてまた、底が抜けた(=限りのない)「愛」に集中することが第一に語られているのだというところから、自分たちの態度決定を整えていくということが求められています。これが愛し合いましょうという促しの示すところです。イエス・キリストの愛を受け、その有り難さに触れた者だけが、何とか応答していこうと整えられていくのだと言えます。
 他者との関係において、相手に対して自分が赦されていることを踏まえて接し、関係を作り直していこうとの招きなのです。このように他者を大切にしていこうとの促しが、互いに愛し合いましょう、ということなのです。こういう仕方で、もう一度イエス・キリストの愛に立ち返ることによって、わたしたちがもっている罪深さを自覚しながら他者との関係を何度でも新しく作り直しえていく道が備えられている根拠は、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(4:10)。この愛に立ち返ることによって、わたしたちは日毎に新たな<いのち>に与って歩むことができるのです。わたしたちは、すでにこの道につらなっているのです。

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